寺田遺跡 平成11年11月3日
芦屋市は昔、うばら群の一部を占め、寺田遺跡の寺田は近くにあった芦屋廃寺などの寺から名付けられたと思われます。当地点から西2〜300mには川があり、たびたびの洪水により堆積されていったものと考えられます。今回4面を調査し、室町時代には畑の跡、鎌倉・平安時代には柱を立てた穴や大きな石と土器を埋めた穴(土抗)などが見つかり、古墳時代初頭では、芦屋川の氾濫による流路跡が見つかりました。
室町時代の畑の跡
鎌倉・平安時代の柱穴
古墳時代初頭の管玉
弥生時代末(約1800年前)の面で4棟の竪穴住居と溝が見つかりました。
竪穴住居1は住居2が埋まったあとに建てられ、全体の規模はわかりませんが、1辺が4.9mの方形と思われます。
住居2は、火災にあい、柱などが焼けこげ、倒壊したままの状態で見つかりました。またベットと思われる部分もあります。この住居は1辺が6m以上と、今回検出したものの中では最も大きなものです。
住居3は、4棟の中で唯一全体の形がわかるもので、4.1m×3.5mの長方形で、4棟の中で最も小さい住居です。
住居4は昭和時代以降の掘削で少ししか残っていませんが、1辺が4.1mの方形です。
これら住居は同時に存在していなかったと思われますが、1800年前から何回となく洪水にあいながら、そのたびごとに村を造りなおしているようすが明らかになりました。
打出小槌古墳発掘調査
現地表下30〜40cm下で周濠の輪郭ラインが検出され確認できたところで幅9m、深さ1mが残存し、その形状と特質から前方後円墳の前方部の一部になることが判明しました。かつて確認されていた古墳周濠は、幅5.6mあり、前方後円墳の前方部前端線になることが明らかになりました。この前端線には台形状の造りだし(突起部分)が見られた。前端部幅は推定で35mを計測します。前方部周濠幅から推定して、本墳の周濠形態は盾形になる公算が高く、前方部推定長40m、全長80〜90mクラスの前方後円墳になることが明確になりました。墳丘の位置関係は、後円部が北西側、前方部が南東側にあり、主軸線を北北西の方向に採る前方後円墳とみられる。西側の周濠には、渡り堤(陸橋部)と呼ばれる施設が造られていました。この陸橋部の上面は削平を被らず、築造時のままの状況をそのまま保っていると考えられます。古墳築造の際、土砂や埴輪、葺石を運ぶ作業労働者の通る道になっていたと思われます。墳丘部斜面には葺石をほどこし、周濠内には多数の円筒埴輪・形象埴輪が出土しました。
円筒埴輪には土師質のもの以外に須恵質焼成のものが1〜2割程度含まれており、築造年代は5世紀後半〜末と判断できます。円筒埴輪の直径は金津山古墳(芦屋市 全長55m 現在発掘調査中)のものより一回り大きく、周濠内出土埴輪の中には、鳥形埴輪の尻尾や器材埴輪(盾など)の破片が見られ、外部表飾の一端が明らかになりました。
市内の首長墓は、阿保親王塚古墳(4世紀前半)⇒金津山古墳(5世紀後半)⇒打出小槌古墳の変遷がたどられます。大型古墳は前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化しますが、その中にあって、当古墳は当地方最大クラスの大きさになっており、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めているようすがわかります。
古墳が造られた時、周濠は水のない空掘の状態で、しばらくすると周濠の底には水がたまり始め、粘土の堆積が始まります。そして雨などにより墳丘から流出した砂や葺石は周濠の斜面に堆積しました。奈良、平安時代になると、周濠の中は湿地へと変化し、黒色粘土が堆積しました。この粘土から、人間によって放り込まれたと考えられる埴輪がたくさん出土しました。そのことから、この時代に古墳を壊すような人間活動があったと思われます。鎌倉、室町時代になると、黒色粘土層の上に砂や石が多くまじった粘土層が堆積し破壊活動後墳丘からの土砂の流出が多くなってできた堆積層と思われ、そのうえに水田が作られました。それと同時に墳丘の反対側の外提の上面が削られました。その後、水田の上に再び土砂がもられ、畑になります。江戸時代になるとかつての墳丘のあった所に大きな穴が掘られ、そのことから江戸時代には墳丘は削られ、なくなっていたことがわかります。その後近代まで再び水田として利用され、近代以降、家が造られ、住宅地として利用されてきました。市街地で幻の大型古墳が発見されたケースは昭和初年以来のことです。
芦屋廃寺(阪急芦屋川駅北側 水道水を西へ300m)
元禄5年(1692)の『寺社御改委細帳』に最も詳しく、行基の開創による塩通山法恩寺のなが見えます。また、在原業平が伽藍を修復し、嘉吉2年(1442)の頃兵火で焼失したので、その跡に薬師堂を設けたことを伝えています。
『行基年譜』には、「天平2年(730)菟原郡に船息院・同尼寺を建てる」という記事があり、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起*流記資材帳』には、「摂津国菟原郡参拾壱町陸段弐百捌拾捌歩」と記され、菟原郡内に寺院や法隆寺領のあったことがうかがえます。行基の頃に遡る寺院の存在を考えさせる伝承は、他に『摂津志』や『摂津名所図会』、『摂陽郡談』、『芦屋の里』、『塩通山故事』、『務古の浦風』などにも取り上げられており、明治41年の奈良時代の様式を示す遺瓦発見を契機に幻の芦屋廃寺についての関心は急速にたかまりました。その後、昭和8年に礎石の一部が発見され、創建時の塔心礎と考えられる一個が、現在、月若町の猿丸吉左ヱ門氏邸内で保存されています。礎石は径130cm、高さ約50cmの五角形の自然石で、中央にホゾ穴を設けています。伝承では孔にたまった水を イボ落とし に使っていたといいます。昭和42〜43年、マンション建設に伴って部分的ながら発掘調査が実施され、奈良時代前期から中、近世におよぶ多量の遺物と薬師堂跡に伴う礎石・石列、中世の石垣列、近世の東川用水路跡などの遺構が検出されていますが、明確な伽藍配置は確認されていません。
出土した遺物のうち、屋瓦は創建期のものが法隆寺の系統をひく八葉複弁蓮華文軒丸瓦で、磚築基壇の残欠や文字磚などと共に注目され、他に弥生・古墳両時代にまたがる生活層や周辺庶民の日常雑器類も豊富に認められました。
阪神間には、猪名寺廃寺・若王子廃寺(尼崎市)・伊丹廃寺(伊丹市)・新免廃寺(豊中市)など、中央との結びつきを強く持った地方寺院址が点在しており、その西端を占める芦屋廃寺の存在は『延喜式』にみえる芦屋駅との関連を考える上でも重要です。
現説パネルより
大阪城と採石地芦屋の刻印石
東六甲採石場にみる刻印の種類は豊富で、例えば、大名の家紋を示す図1、2、3、石工の持ち場を示す図4、5、などの刻印があり、図6、7、8、9、など、意味の明らかでないものもあります。分布状況もいくつかのグループに分けられます。西から、城山を中心とした一帯には、図10、11、野外活動センターの周辺には、図12、13、14、15、16、17、が見られ、岩園町から六麓荘町にかけて、図18、19、20、21、の刻印、越木岩神社一帯には、図22、の刻印、北山池一帯には図23、24、25、の刻印、甲山一帯には、図26、27、の刻印など、6つのグループの分布があげられます。
このことから、東六甲採石場に分布する刻印と、大阪城石垣にある刻印とを照合してみると、明らかに芦屋と結びつきのある刻印は、野外活動センター周辺に分布する図28、29、30、31、32、33、 などが、東外濠の石垣に見られます。ひらかな「あしや」の刻印は、採石場以外のところで刻まれたものでしょう。
表六甲山系に点在する刻印群、それは、築城に関係する資料として、近年大きく関心が強められていますが、支配者と被支配者という関係においてみるとき、それに従事する人々の様々なな葛藤の名残を止めているものといえます。
花崗岩が石材として、築城やその他の用途に、多く使われていたことは、原料にもよく見られます。寛永16年(1639)から、寛文元年(1661)までの「公儀御普請」によると、江戸城普請の際、尾張殿御進上として「一角石廿四本 御見影石」が、天野麦右衛門・横山甚兵衛・中嶋弥兵衛の3名の氏名で献上されています。また、明和6年(1769)の『芦屋村差出明細帳』にも農業が手すきのときには、石堀などを行ったことが記載されています。明治になって、神戸〜大阪間に鉄道が敷設されたころ、「打出村御林内の石材は症合もよろしく、人費も格安」と、石材調査の記録が残されています。
このように、時代を問わず、表六甲の山々から、ひっきりなしに石材が切り出されたことがわかる反面、その作業に地元の人々が従事させられるほど、無計画な採石や伐採が、山崩れ、洪水の原因となり、六甲の治山に大きく影響を及ぼすことになりました。
現地説明パネルより
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