芦屋廃寺遺跡(第62地点)発掘調査       現地説明会資料より


 

(1)調査の動機と目的

 今回の発掘調査は、震災復興を目的とした共同住宅建設の事前調査として実施しています。調査地
は芦屋廃寺跡の推定寺域内に入っていることから、試掘確認調査は実施せず、そのまま本調査入りま
した。事業種別は、平成11年度の震災復興関係の国庫補助事業です。
 今回の調査は、平成11年11月末までに実施された都合66次におよぶ発掘調査・確認調査・工事立
会調査のうち、第62次として行われた事前調査で、面積的に見てB地点に次ぐ面的な発掘調査となり
ました。芦屋廃寺の推定寺域は、すでに宅地造成や個人住宅の建設により土木工事がかなり進んでお
り、残り少ないまとまった面積の調査となりました。
 発掘調査に際して、ねらいとしたことは、・旧地形の変化の把握、・弥生・古墳・歴史時代の各遺
構の検出層位と重層性の把握、伽藍関係遺構の検出などで、それぞれについて一定の所見を得ること
ができました。



(2)発掘調査の場所と地番
兵庫県芦屋市西山町129番地、129番地1、129番地2(敷地面積682.5平方メートル、発掘面積416平方メートル


(3)調査期間
平成11年8月1日〜同年12月28日(実働約3カ月)<8・9月は事情により中断


(4)発掘調査の経過
 発掘調査は平成11年8月1日に開始しました。初日は現場事務所などを設営し、8月中旬はまだ調査対象地の
大半に被災家屋が残っていたため、家屋の解体と並行しながら、調査地東部を機械掘削しました。8月11日〜
8月17日まではお盆休みとし、8月18日に調査を再開しましたが、家屋の解体と庭木の伐採が調査の進行に影
響を与え、阪急電車との関係も生じたために、8月20日〜9月30日まで長期にわたり調査を中断しました。
 調査対象地域が更地となった状態で、改めて10月1日から発掘調査を再開しました。10月1日〜10月8日ま
で、重機で明治時代以降の地層を除去し、それより深い部分は地層を1層ずつ掘削しました。
 調査区南半分から調査を開始し、古代の遺物包合層を除去したところ、柱穴が検出され始めました。南半
分の柱穴の検出と並行して、10月18日からは北半分の段差部分の調査に着手しました。
 まず、近代の表土や盛土を除去したところ、中世の段差がみつかりました。当初からこの調査地点では芦
屋廃寺跡の存在が確認されており、この段差が寺院遺構の一部である可能性が考えられました。そして、こ
の段差の性格を判断するために一部にトレンチを入れて断ち割ったところ、版築がみとめられる3層にわたる
基壇築成土が検出され、多量の瓦やセンが伴って出土したことから、寺院の基壇であることが推測されるよ
うになりました。基壇は各築成土より出土する遺物から、創建期(白鳳時代)、古代(奈良・平安時代)、
中世(鎌倉・室町時代以降)の3時期のものを想定し得るようになり、今日に至っています。


(5)検出遺構
 調査地は、現状地形にみられる土地割りとはやや異なった区分がみられ、段差を元にした旧地形の地割り
に則して、高い方を北地区、南の低い方を南地区と仮称しました。以下、北地区・南地区の順に検出された
遺構の粗い調査所見を記します。

 1.北地区
 調査区の北側に存在した段差地形の高まりを北地区と称しています。この地区は、当初7m×13mの直角三
角形様の高台部分として、その多くが北側道路部分の造成時の盛土と考え、掘り進めていましたが、その過
程で古代にさかのぼる瓦片が異常に多いことに気づきました。調査区北壁に沿ってテストトレンチを入れて
みたところ、標高30.65mを測る現地表面下10〜15cmの浅いところから安定した整地面が存在することがわか
り、さらに下にも少なくとも2回整地地業がなされた面があることを確認しました。

トレンチを南北方向に広げて高台部分の断面を層位的に確かめたところ、これらの整地面は都合3面存在し、それぞれが入念な築成土によって形成され、下から順次上に盛っている状況が把握できました。土層の断面観察から版築の痕跡もうかがえました。その後、東から1・2・3 区に分け、順次分層発掘を進めています。次に各面を形成する築成土と出土遺物の様相について説明します。

*1 整地面 1
 B層(淡灰褐色砂混じり粘質土)によって形成された地業面で、上面は標高30.55m前後を測ります。限地表
下16cmの浅い位置から始まり、篤さ40cmの築成土から成る整地面で、堅くつき固められています。薄く水平
方向に広がる縞状の版築が認められ、瓦や土器の小片も含んでいます。土は一見水田などの耕作土に近い灰
色土壌ですが、包含されている遺物は、13世紀の瓦器などが最も新しいもので、この地業がなされた上限時
期がわかります。中世後半期や近世に入る遺物は一切含まれていません。
 整地面に伴って二、三の小礎石が検出されました。北・区拡張部の小礎石は小さな堀形をもっており、布
引花崗閃緑岩製で長軸38cm×短軸21cmの大きさの上面の平らな自然石を用いています。この礎石上面のレベ
ルは標高30.62mに位置します。

*2 整地面 2
 C層(暗灰褐色粘質土)によって形成をみせた地業面で、上面の標高は30.15m〜30.25mを測ります。現地表
下50cm程のところに位置します。厚さ20cm〜30cm程の築成土から成り、土器片と瓦片を含みます。粘土の小
ブロックを混じえる比較的しまりのよい土で、鉄班紋が認められます。版築製は明瞭ではありませんが、C1
層とC2層に弁別することが可能で、粘土と極細砂との含み具合や色調により細分できます。須恵器や土帥器
で年代の知れる資料は、8〜9世紀頃のものが目立ちます。

*3 B層-c層間の砂層・礫層の存在
 整地面・の直上には4〜11cmぐらいの淡黄色砂層の堆積が認められました。各所に入れたテストトレンチの
断面で断続的ながらその存在が確かめられ、一時、C層上面を覆ったことがうかがえます。性格的には洪水な
どによる堆積物で自然層と考えられます。この砂層の直上には拳大から人頭大ぐらいまでの石が覆ってお
り、この礫は一部B層下部中にも点在しました。下の砂層とともに一見自然堆積のように見えますが、地なら
しに際し、築成段階に人為的に投されたものとも考えられます。

*4 整地面3に伴う瓦の堆積面
 整地面3には、主として・区部分に瓦の堆積面が存在しました。

東西3.2m、南北2.3mの広がりをもち、一見土坑状の掘り込みがあるようにも見えますが、堆積の厚さは薄く、敷布されているような出土状況です。瓦溜まり・雨落ち・基礎地業などさまざまな性格が考えられますが、まだ決め手を欠いています。出土している瓦の組成は凸面縦方向縄叩き、一枚造りのものが大半で、僅かに有段式の丸瓦片が認められます。中世に下がる瓦はないと判断されます。

*5 整地面 3
 D層(黒褐色砂混じり粘質土層)によって形成をみた地業面と考えられ、最下にある人為的な築成土です。
粘土と細砂〜粗砂の混入によってしまりをよくした土で、瓦片を一切含まないこと、包含土器片は7世紀中葉
〜後半頃までの時期のものを下限とすることに大きな特徴があります。これには大きな礎石一石が伴うこと
を確認しました。D層の上面は、高い部分で標高30.0mを前後する位置にあり、現地表下70cmの所に存在しま
す。

*6 礎石

 上面で東西70cm、南北65cm、石自体は1m近くある大きさの六甲花崗岩(黒雲母花崗岩)の自然石で、加工
の施された跡は全く認められません。高さは60〜70cmあります。上面は西に傾いており、トップレベルで標
高30.15mを測ります。明瞭な堀形を認めず、基壇の築成に伴い据え付けらたものと思われます。現在、創建
期の建物の礎石と考えていますが、礎石列としての把握を今後の調査に残します。

*7 下成基壇と思われる地覆石、もしくは再建基壇の延石
 北地区の段差に沿って新しい地層を除去した後、これに平行して直線に並ぶ石列が検出されました。下部
の版築土はここで止まって石列の背後にくるため、標高29.4mと低い位置にありますが、ここでは一応推定金
堂跡の下成基壇の地覆石と推定しています。

ただし、黒褐色の粘土質土のおさえが石の前面にあるため、土中にもぐり、延石のような機能を果たしているようにも思えます。その場合は、裏込め土の中にも瓦片が含まれているので、再建時のものと考えられます。
 原位置を保つのは、数石で2m程しか残存していませんが、基壇の端の状況を示しています。この石列と最
も関連する石材は、この西方向での延長上に1石確認され、標高29.6m_の高さにあって、レベルを等しくする
とともに、直角に曲がって北壁に入り込むため、北方向へと続く様相で終わり、隅部に相当していることが
わかります。残存する2カ所の石材間の距離は9mを計測しており、今回見つかった建物跡の南西隅ととらえて
います。この段差斜面の裾からは同様な石材が数個遊離してみつかっており、重廊文軒丸瓦なども顔をだし
ています。

この石列は基壇と関係するものとみて間違いなく、東西幅も少なくとも12〜13mとれる点,建物の
大きさを示唆します。

*8 (セン)出土土坑

 1・2区に設けた南北トレンチの中で(セン)を2枚並列して平置きした穴がみつかりました。(セン)は
原位置を保つものではなく、須弥壇の羽目石などに用いられたものの転用品と考えられますが、この状態で
の用途や性格は不明です。近くから単弁十九弁蓮華文軒丸瓦(平安時代前期)1点が出土しています。
 なお、(セン)は連接使用を目的としたくり込みが入れられて焼成仕上げがなされたもので、大きさは縦
58.5cm、横32.0cm、厚さ11.0cmを測ります。なお、瓦溜にみられるものは縦59.5cm、横26.0cm、厚さ12.0cm
を計測します。

*9 瓦溜

 北1区を地権者の許可を得て可能な限り拡張したところ、B層相当レベルで大量の瓦片が遺棄されている土
坑が見つかりました。その範囲は南北8m以上、東西5m近くあり、二次焼成を受けた焼け瓦や(セン)が多数
見えますが、実際は東から西の方向への斜面廃棄を示すように考えられ、土地の削平前により高所からの瓦
礫の投棄がいくつかの単位をもって行われたようにも解釈できます。その中には石塊だけをまとめて棄てた
場所もあったようです。
 これらの行為の時期に関しては、不明確な点が多いですが、B層の形成より先行する可能性が強いように思
われます。ただ瓦の所属時期については、古代の瓦が大半ですが、中世段階のものも比較的認められ、補修
瓦が加わっている様相から*4の瓦堆積面とは明らかに時期を異にするものです。

 2. 南地区
 南地区では、基壇の裾から南へ約13mの位置まで平坦面が続いており、そこから南へ傾斜しています。この
平坦面を覆っていた地層は、弥生時代後期から古代の遺物を含んでおり、土質から古代の造成土と推測して
います。つまり、南へ傾斜する自然地形に芦屋廃寺が建立された頃に造成工事を施し、基壇南方に平坦面を
造りだしたことが推測されます。
 当地区からは、同じ確認面で弥生時代後期から奈良時代までの柱穴や土坑が約200基検出されました。それ
らの大半が建物の柱穴になると推測されますが、建物跡が明らかになったのは1棟だけです。柱穴の大きさ
は、径20cmのものから130cmのものまでの幅が見られます。この建物は梁行2間、桁行3間の柱位置で、3.6m
×4.8mの大きさです。

 調査区南東隅の斜面地には、古代の造成による破壊をまぬがれた竪穴住居二棟(弥生時代終末期一棟、古墳時代後期一棟)が見つかりました。
 寺域周辺では、これまでの調査でも芦屋廃寺・寺田・月若・三条九之坪などの諸遺跡で多くの竪穴住居跡が見つかっており、当地点も当時の集落の範囲内であったことがわかります。竪穴住居群は古代の削平地業を受ける前には、斜面地全体にあった可能性が強いです。
*1 堀立柱建物
梁間(約3.6m)×裄行(約4.8m)の東西方向に主軸をもちます。柱穴は不整な方形で、大きさは径約1mと大きいです。深さは深く残存するもので60cmあります。建物中軸線は真北から約30度西に振っており、寺院建物の主軸とは一致しません。現在調査中で時期は不明です。
*2 竪穴住居跡 1
調査区南西隅で、方形竪穴住居の北壁のみが検出されました。北壁の中央には竈を設けています。
   
北壁一辺は4.5m以上あります。出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)のものであることがわかっています。
*3 竪穴住居跡 2
調査区南西隅で見つかった方形竪穴住居です。北壁部分のみが見つかり、北辺の長さは2.5mです。
弥生時代後期(3世紀代)のものです。
    


[6] 出土遺物

 出土遺物はすでにコンテナ50箱に達しており、これから出土するものを加えると、100〜150箱程度になる
ものと見込まれます。その95パーセントが瓦片で、集落遺跡の調査とは異なって、日常的な土器類の出土は
少ない点が特徴です。
 (1) 瓦
 瓦の大半を占めるのが丸瓦・平瓦類ですが、ここでは軒丸瓦・軒平瓦を中心に若干整理のついたものにつ
いて簡単に説明します。

  複弁八弁蓮華文軒丸瓦

  大きな中房に18個の宝珠(1+6+11)を、周縁には面違いの鋸歯文を飾る法隆寺式の軒丸瓦で、
  7世紀後半の芦屋廃寺創建時の屋根瓦です。奈良県長林寺出土のものに酷似しており、680年代    
  の制作年代を与えることができます。
   
  複弁十二弁蓮華文軒丸瓦

  中房に13個の宝珠(1+4+8)をもつものでそれぞれに周環を付けています。内区に十二葉の複弁をおき、
  外区は蓮珠文帯、周縁は鋸歯文帯で飾ります。藤原宮系軒丸瓦の一つとしてとらえることのできる型式  で、奈良県高宮廃寺出土軒丸瓦などと類似する点が特徴です。最も数多く出土しており、7世紀最末期か  ら8世紀初頭頃の年代を与えることができます。
  

  十二弁剣状花文軒丸瓦

  中房に9個の宝珠を施し、12葉の剣状の蓮弁により飾る珍しいタイプの軒丸瓦で、弁間には珠点をめぐら
  しています。大阪府豊中市の新免廃寺や神戸市長田区の房王子廃寺に同笵とみられる軒丸瓦が存在し、  注目されます。時期は、奈良時代末頃まで下がるものと思います。

  単弁十九弁蓮華文軒丸瓦

  中房に9個の宝珠を配し、子葉をもたない十九葉の細弁文を内区文様とする軒丸瓦で、圏線にとり隔てら
れた外区には、蓮珠文帯をめぐらしています。珠文間の間隔はひらくもので、平安時代前期に下がる年代を
付与できます。大阪府東大阪市に所在する法通寺に近似する軒丸瓦で、弁数はやや異なりますが、よく似た
モチーフの瓦といえます。これまでの調査では、廃棄された土坑や焼成を受けた瓦溜などからの出土が目立
ち、平安前期以降の焼亡の証左にもなっています。

    
  重圏文軒丸瓦A類

  中心に珠点を有し、非常に角張った太線の二重圏線をめぐらす軒丸瓦で、平城宮出土例をその祖形とし
ます。千葉県真行事廃寺出土例にも同型式の軒丸瓦が認められます。奈良時代の瓦です。
  

  重圏文軒丸瓦B類
  A類と同様に、有心二重圏線の軒丸瓦で、A類と比較すると、圏線の断面が僅かながら丸みを帯び、直径
が幾分小さくなります。奈良時代のものです。

  均整唐草文軒平瓦
  内区中央に中心文様○をもち、左右に均整唐草文を配した軒平瓦で、外区上縁を蓮珠文帯で、左縁・右
縁の外区を鋸歯文で飾っています。藤原宮系の軒丸瓦に対応するものとみていいでしょう。
  
  唐草文軒平瓦
  内区の中央に中心装飾を配し、その左右に唐草文を展開させた軒平瓦で、外区には肉薄の珠文を間隔を
あけておいています。細弁花文系の十九弁蓮華文軒丸瓦とセットになる時期のもので、平安前期に比定でき
ます。

  重廓文軒平瓦A類
  細い線に廓を形づくり、その中に横方向の1条の細線を加えるもので、後期難波宮の様式に近いもので
す。対応する重圏文軒平瓦は過去の調査でも出土しています。8世紀の軒先瓦です。

(2)(セン) 
  今回の調査で特筆すべき遺物として、たくさん出土した「セン」があげられます。整理未了のため正確
な数は不明ですが、小断片を入れると、50点近く検出されています。現地に残している「セン」は完形品
で、くり込みがあり、基壇や須弥壇などの羽目石の機能が考えられます。隅束になりそうな断面L字形の直方
体状のものや葛石の用途をもつくり込み「セン」など、多様な形態のものが出土しています。用いられた場
所や機能の特定は今後の課題です。

(3)その他の遺物
  瓦・「セン」以外に出土した遺物として、土器類やフイゴなど鋳造関係の資料がみられます。
 *弥生土器
  竪穴住居に伴って、後期最末期の庄内併行期の土器が出土しています。住居の床近くには、甕形土器が
  座った状態で出土し他に若干の破片が検出されています。
 *土帥器・須恵器
  古墳時代中後期を中心とする日常容器で、住居跡や堀立柱建物跡などに伴うようです。須恵器は、最下
  の基壇築成土に伴うもので、7世紀中頃の杯身・杯蓋・高杯などが確認されており、寺院の創建期を考え  る上にヒントになります。土帥器では、芦屋市域全体で数少ない律令期の精製土器も認められ、今後、  器種やその組み合わせを検討することによって、遺構の性格を把握する手がかりが得られるものと思わ  れます。
 *中世の土器
  鎌倉時代以降の土器は、主として最上段の基壇から出土していますが、13世紀頃までのものを中心とし
  ており、中世後半期の遺物や近世に入るものは、皆無に近い点が一つの特徴です。土帥器・須恵質土   器・瓦器・白磁などが認められ、やはり煮沸形態が少ないなど、一般集落とはやや組成を異にする日常  容器が出土しています。
 
 

[7]まとめ 

ベールを脱ぎ始めた幻の芦屋廃寺
 明治41年(1908)の古瓦の発見以来、90年以上を経て、今回初めて古代にさかのぼる寺院遺構発掘調査に
より確認されました。新ミレニアムを間近に控え、私たが「幻の芦屋廃寺」を探索し始めてからでも30年近
くになりますので、隔世の感がいたします。阪神地方での寺院址の発掘も久し振りのことです。
発掘調査は終盤近くになっていますが、まだ途中であり結果のすべてを紹介することはできませんが、以
下、項目を立てて成果の一端をまとめておこうと思います。
 

*寺域と立地
今回の調査では、芦屋廃寺跡の寺域についてかなりヒントが得られるようになりました。それは古代にさか
のぼる寺院遺構が初めて検出されたからで、第46地点の発掘結果を考慮に入れると、ほぼ西限については確
かな範囲が明らかになったと思います。第46地点では、中世段階の三巴文軒丸瓦2点が出土していますが、軒
丸はもちろんのこと、瓦片自体も少量で、概ねQ・R地点が出土分布からみた限界線のようです。東限につい
ては、W地点で平安時代前期の堀立柱建物(東西棟)がみつかっていますが、やはり古代にさかのぼる軒先
瓦の分布は稀薄で、第32地点やG地点、第41地点でも同様なことから、踏切の存在する南北道路を一つの目安
とした寺域東限が考えられます。ただし、付属建物群が東にのびて存在していることは十分考えられ、広く
見てもW地点の東半部が限界線とみられます。B地点は軒丸瓦・軒平瓦の出土分布が濃厚で、主要建物が破壊
された地区である可能性は残ります。
南限はA地点の発掘成果から阪急神戸線の地形変換部に想定でき、北限については、昭和42〜43年調査地の
C・D地区を含み、A地区を除外した範囲を一応推測できます。このように現状の調査状況からあえて寺域を
考えれば、東西120m南北100m程度の範囲を示すことが可能です。
ただ主要伽藍は、今回の調査により個の範囲の中でもより西に想定すべき材料が得られましたので、立地条
件からみれば、南と西の主として二方に開けた扇状地の端部緩斜面地という理解ができるようです。建立地
からの見晴らしは、芦屋川に近い扇状地の扇央部よりむしろ西にはずれたこの場所の方が南の段丘崖との比
高差も大きく、立地点の見かけの高さを想像以上に高く見せる効果があります。選地にあたってのねらい
は、南西方に広がる古代の集落や官ガを意識し、建築された金堂や塔が最もきわ立つこの場所を選んだもの
と考えていいでしょう。なお、調査区東側で一部確認を行ったところ、扇状地形成以前と推測される淡赤褐
色の段丘礫層が標高28.3m、現地表下1.65mの深部で検出されており、旧地形の一端が把握されました。これ
を見る限り、最も堅い地山を切土加工して寺域を大規模造成するような地業は行っておらず、おそらく盛土
工法に専らたよった基礎造成をすすめ、寺域をなんとか確保したようです。

伽藍配置について
芦屋廃寺の主要伽藍については、これまで全く手がかりが得られなかったのですが、今回の調査地点では、
金堂跡の南辺と推定される地形段差と基壇が検出されたことにより、東隣の敷地で出土した塔心礎とあわ
せ、西に金堂、東に塔を配する法起寺式など、伽藍配置考定の微証がみえ始めました。これが最も大きな成
果の一つです。また、東西に長くのびる遺構の空白域をおいて調査区南半域に広がる堀立柱群の中にも寺院
関係の建物跡が存在するようで、2間×3間の柱配置が明確な堀立柱建物を「中門」に比定することも一つの
考え方です。ただし、この段差以南の遺構群を一旦切り離して考え、段差以北を純粋な寺域としてとらえ、
寺域造成地業の南縁部とみる解釈も柔軟に残しておく方がよいでしょう。
回廊などの遺構は今のところ見あたりませんし、周辺でも検出されていませんので、全体の関連性はまだま
だ不明確な点が多いですが、六甲山地南麓部のこうした段差地域の著しい扇状地斜面に設けられた寺院の伽
藍は、私たちが想像するほど、完成された整美な伽藍配置をとることはなかったのではないでしょうか。旧
地形を巧みに利用し、造成の地業を極力最小限にとどめ、やや山寺風にはなりますが、地形小単位ごとに堂
塔や付属建物を配置したイメージとなります。

推定金堂跡の基壇
北地区で検出された礎石建ちの建物遺構を私たちは一応伽藍中心の金堂跡とにらんでいます。この段差地域
が正しく東西方向への広がりを持ち、段差の前面では下成基壇の一部残存と考えられる花崗岩の基低列石が
見出されていること、軒丸瓦に創建時の法隆寺式や少し遅れる藤原宮系の瓦が検出され、後者の軒丸瓦が他
地点に比べ比較的安定した数認められること、基壇面と思われる整地地業のつくり替えが重層的層位的に検
出されたこと、建築用材である「セン」の出土が顕著なことなどがその根拠ですが、隣接する東の敷地から
出土した塔心礎の存在を考えると、より可能性は大きくなるものと思われます。しかし、寺域の南限線とし
てこの段差をとらえた場合、これらの遺構については別の見方も必要になってきます。
基壇については、礎石や瓦敷布面の存在と土質の分類から都合3回の設営があったものと推測され、築成土に
包含されている土器類の型式や瓦片の有無から創建基壇→再建基壇・→再建基壇・の存在が想定可能です。7
世紀末と見込まれる創建基壇には大きな自然石の礎石を伴っていますが、再建基壇・の礎石は対照的に非常
に小さなものとなり、法灯を受け継いでいったものの、その性格が仏堂的な小規模、貧弱な建物んい変化を
とげたいくようすが知られ、興味深いです。その時期も中世末期から近世段階の幅の中で考えるのがよいと
思います。

付随する堀立柱建物群
南地区では一定の遺構稀薄区域をおいて堀立柱建物の柱穴とおぼしき穴を密度高く検出しました。現時点で
その数200基に達します。建物のまとまりは古墳時代から中世ぐらいまでの柱穴を一括同一面に含むため重複
も多くとらえにくいですが、現在のところ推定金堂跡の前面に比較的大きな柱穴をもつ2間×3間の建物一棟
とその西側に布掘り状の堀形をうがつ比較的軸線を等しくする建物一棟が確認されています。いずれも東西
方向への広がりをもち、大体においては北地区の礎石建物とも関連する方向を保つようです。ただし、建物
の用途はどちらも不明で、2間×3間の建物は単独でみた場合、伽藍を構成する「中門」の存在を想定するの
も一案であることは、前にも述べました。しかし、回廊の不在を考えると、疑問も多く、今後の検討を待た
ねばなりません。

白鳳期創建の芦屋廃寺
芦屋廃寺から出土した最も古い瓦は、線鋸歯文縁八弁蓮華文軒丸瓦(法隆寺式)の存在により、7世紀後半
(680年代頃)の白鳳文化期に属することがわかります。続く複弁十二弁蓮華文は藤原宮式の軒丸瓦で、7世
紀末〜8世紀初頭頃の時期が与えられます。いわゆる白鳳期(7世紀後半)に建立された寺院は、50ヶ所前後
しか存在しない飛鳥時代の寺院跡とは異なり、600ヶ所とも700ヶ所ともいわれ、陸奥伏見廃寺(宮城県)を
北限とし、南は肥後の興善寺まで、全国各地に広く分布しています。
 しかし、その分布密度には著しく疎密があり、畿内を中心に近江南東部・播磨・伊勢・尾張・美濃・備
前・讃岐の諸国にでは1郡に対し、数ヶ寺の割合で建立されていますが、多くの地域では1郡1寺、またはそれ
以下の稀薄な分布となっています。なお、「扶桑略記」持統六年条は当時の寺院数545を今に伝えており、一
つの目安が得られます。
 芦屋廃寺はこの点、摂津国菟原郡官下において唯一最古の古代寺院ということになり、大変貴重な存在と
言うことがわかります。また、創建時における法隆寺式の軒丸瓦の採用と菟原郡における法隆寺領の存在は
大いに関係するところであり、とりわけ大和・長林寺の遺瓦に最も近似した型式であるところから、670年代
以降、瓦当文様が急速に地方に伝幡を果たし、普及していく状況の中で、当地方への早い時代の招来をうか
がうことができるとともに、大和との積極的な結びつきが理解されます。

仏教の受容と地方寺院建立の意義
 7世紀を4区分した最後の四半世紀は、いわゆる天武・持統期で、この時期に急増する白鳳期の古代寺院は
天武天皇や持統天皇による仏教政策と関連したものと考えられています。特に天武天皇は壬申の乱(672年)
以降、中央集権的な国家を求め、鎮護国家の仏教を活用して国家支配と政治を推し進めます。仏教の浸透を
媒介に宮王の文化や技術は地方にも伝えられ、同時に新しい支配方式の中で仏教や寺院建築の普及は不可欠
なものになっていきました。
 ところで仏教は、お隣の国朝鮮において高句麗が最も早く西暦372年、百済には384年、新羅には450年に伝
来し、日本列島には538年や552年の二説をもって伝わったことをご存じの方は多いでしょう。538年(欽明戌
午)は、「元興寺伽藍縁起ナラビ流記資材帳」や「上宮聖徳法王帝説」が記し、552年(欽明13年)は「日本
書紀」がその年代を伝えるものです。当時の大王家は朝鮮三国との対外交渉を通じて仏像・教典・僧侶など
を流入させ、とくに百済を中心とした仏教の受容を積極的に試みたようです。ちなみに、日本に仏教を公式
に伝えたのは百済の聖明王です。大和政権の内部では有力豪族である蘇我氏がこれを積極的に推進し、大王
による仏教公認のもと、全国に波及していくことになります。
 ただし、公伝後の半世紀は、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が鋭く対立した時代であり、本格的な七堂
伽藍の建設は、物部氏の滅亡の翌年に百済から渡来した技術者たちが指導して大和飛鳥真神原の地に飛鳥寺
(法興寺)が建立されるのを待たなければなりませんでした。
 飛鳥寺の造営に続いて7世紀に入ると、蘇我氏の尼寺である豊浦寺や鞍作氏の氏寺である坂田寺、聖徳太子
創建の斑鳩寺(若草伽藍)、さらに四天王寺などが続々と建立され始めました。この動向を受け、畿内の有
力豪族や渡来系氏族もいわゆる氏寺を次々と営んでいったようです。芦屋廃寺もこのような情勢の下、7世紀
末までに創建されたものと思われます。
 

菟原郡における芦屋廃寺の造営とその建立者の性格
 まず、芦屋廃寺の前史となる4世紀段階、寺田遺跡では西摂地域最古の造り付け竈をもつ竪穴住居が登場し
ます5世紀段階では、芦屋市東部の翠ヶ丘丘陵先端部に古墳時代中期後半〜末としては阪神地方最大の前方後
円墳である打出小槌古墳が築造されます。全長90m近くに復元される大型古墳で、当地方全般で前方後円墳の
縮小傾向が強まる中、在地首長層の飛躍的成長がうかがわれます。6世紀に入ると、背山である、城山の山麓
一帯で群集墳の造営が始まり、7世紀にかけて数多くの横穴式石室墳が築かれます。三条・城山古墳群の出現
ですが、この群集墳は、六甲山系の後期古墳の中で@正方形に近い玄室プランをもつ巨石墳(山芦屋古墳)
を含むことA三条寺の内古墳や城山古墳、城山10号墳など県下ではこの古墳群にのみ集中副葬するミニチュ
ア竈形土器が存在することB武器、馬具の副葬品が顕著なことC終末期の多角形墳である城山3号墳を含み、
終末期の大型石室墳である旭塚古墳などを築いていることD7世紀後半の終末期古墳である城山18号墳までの
長い系譜がたどれること、特異な要素を数多く備えており、渡来系氏族の墓域と考えられています。

 芦屋廃寺跡のごく周辺では石帯や壬子年銘木簡(652年)が出土した三条九ノ壷遺跡、奈良時代の正倉や郡
領「大領」「少領」など地方官人(四等官制)の存在を示す墨書土器、さらに和同開珎が検出された寺田遺
跡をはじめ、公的な施設や建物が存在したようです。『延喜式』巻二八、兵部省の「諸国駅伝馬畿内」の項
には、葦屋駅も登場しており、律令制下、都と大宰府とを結ぶ大路に相当する古代山陽道上の西国交通上の
要地としてもしられています。

 以上のように、7世紀末〜9世紀初頭にかけての芦屋廃寺を取り巻く歴史的環境は、菟原郡内にあってすこ
ぶる官衙的色彩が強く、菟原郡の郡衙(古代の役所)が8世紀には、芦屋川右岸のこの地域一帯にあったこと
も充分考えられます。神戸市東灘区に所在する郡家遺跡は現在、菟原郡の郡衙比定置としてよく知られた存
在ですが、出土土器類は9世紀に大きなピークがあるので、8世紀末頃を境とした葦屋郷から住吉郷への郡衙
の移動も確立が高いことではないかと思います。

 寺院の建立はこれまでの古墳の築造に替わる地方豪族達の勢力誇示の有力な手段になったことが予測され
ますが、外来の新しい思想の普及と政治や文化の拠点として、こうした地方寺院も大きな役割を果たしたに
違いありません。一群一寺の典型的分布を示す摂津国菟原郡内の芦屋廃寺のあり方は、郡を代表する存在で
あり、いわゆる「郡寺」として郡司層となった在地豪族が主導して創建された寺ではないかと想像していま
す。芦屋廃寺出土軒先瓦の文様の変化を分析すると、7世紀末〜8世紀第3四半期頃までと8世紀末以降とで様
相の変化が見られます。中央官寺や都城との関係がうすれ、地域化が進む点など、8世紀末での郡衙の西への
移動と符合する変化の一つと考えると説明がつきやすいと思われます。

 上記の推測と深く絡むことは、芦屋廃寺出土軒丸瓦のうち、奈良時代の瓦の一部が神戸市長田区に所在す
る房王寺遺跡出土例と同笵と見られることで、室内小学校を中心とする同遺跡周辺では、瓦葺で朱塗の古代
建築の遺存が推定されており、古くに雄伴郡の郡衙が想定想定されている点は、二つの廃寺の性格を考える
上で重要です。
 



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