今回現地説明会に行ったのですが、多くの人が詰めかけたためか、説明というものはほとんどなく、ただ遺構の周りを人々と共に歩いて押し出されて終わってしまいました。写真はとりましたが、説明会資料と、新聞、テレビでの報道にたよるしかありません。せっかく明日香まで来たのだからと、今回の石造物の関係から皆さんもご存知でしょうが、謎とされていた石造物をまわって見ました。
今回の調査は、この「出水の酒船石」が発見された場所を中心に、出土状況の確認と遺構の性格の解明を目的に実施されました。
調査の結果、飛鳥時代の苑池遺構の一部と、大正5年に抜き取られた穴を確認し元の位置を確定し、新たな石造物を検出することができました。
苑池は底に10〜30cmの平らな石を敷き詰め、周囲に石積みの護岸を巡らせたものです。北東部護岸石垣際は4m幅で上面に更に一層の石敷きが施されています。また護岸石垣に沿って柱穴12個所確認され、水面上に突き出す「床」が設けられていたらしいと思われます。
苑池の中に6×11mの範囲で島状石積みがあり、また調査区の北側に南側に向かって舌状に張り出す護岸石垣を検出し、この部分は西側の護岸石垣とは異なり、石敷き上に小礫を置き、その上に垂直に積まれています。
3段積みで高さは110cm遺存しています。この石垣は北側の護岸から張り出す出島状の施設か、独立した中島の石垣で張り出し部分に相当するものと考えられます。
これにより石造物は南北方向に一直線に並び、段丘崖を利用して南方の高所から流水し、さらに池中への落水を意図したことが明らかになりました。
このような大規模な施設をもった苑池は、同時に出土した土器から天武朝には確実に存在し、7世紀半ばの斉明天皇時代までさかのぼる可能性もあると推定される。日本書紀に、天武天皇が死の前年、天武14年(685年)11月「白錦後苑に幸す」とあり、今回の苑池が白錦後苑とすれば大変興味深い調査結果になります。
明日香での石造物
〇石人像
横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。すでに古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ約7,6m、幅約3,5m、高さ約4,7mで大小30数個の花こう岩が使用されており、天井に使われている石の重さは北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2,300tという大規模な古墳であることが判明しました。
封土を失った古墳の石室であり、もとは花こう岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個を組み合わせたものであった。いまは、底石(俎)、蓋石(雪隠)が分離して残っている。大化2年(646年)の薄葬令の規制に合わせて作られている。
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