飛鳥京跡苑池遺構(飛鳥京跡第140次調査)平成11年6月19日

 今回現地説明会に行ったのですが、多くの人が詰めかけたためか、説明というものはほとんどなく、ただ遺構の周りを人々と共に歩いて押し出されて終わってしまいました。写真はとりましたが、説明会資料と、新聞、テレビでの報道にたよるしかありません。せっかく明日香まで来たのだからと、今回の石造物の関係から皆さんもご存知でしょうが、謎とされていた石造物をまわって見ました。



現地説明会資料及び新聞からの抜粋
 調査地は飛鳥京跡に接する飛鳥川東岸の低位段丘に位置しています。大正5年(1916)、この地から巨石「出水の酒船石」が農家の人が耕作中に石を掘り起こそうとして見つけました。花こう岩製で、長さ2,2m幅1,7mの平たい石と、幅30cm長さ3mの細長い石の二つ。石の表面に穿たれた溝と窪みによって水を受けて流す仕組みになっており、岡所在の「酒船石」との関係性が指摘されている興味深い石造物です。経緯は不明ですが、現在は野村證券などの野村グループの創始者、野村家の別邸「碧雲荘」庭園内にあります。また飛鳥資料館にレプリカがあります。

 今回の調査は、この「出水の酒船石」が発見された場所を中心に、出土状況の確認と遺構の性格の解明を目的に実施されました。

 調査の結果、飛鳥時代の苑池遺構の一部と、大正5年に抜き取られた穴を確認し元の位置を確定し、新たな石造物を検出することができました。 
                       
 苑池は底に10〜30cmの平らな石を敷き詰め、周囲に石積みの護岸を巡らせたものです。北東部護岸石垣際は4m幅で上面に更に一層の石敷きが施されています。また護岸石垣に沿って柱穴12個所確認され、水面上に突き出す「床」が設けられていたらしいと思われます。

 苑池の中に6×11mの範囲で島状石積みがあり、また調査区の北側に南側に向かって舌状に張り出す護岸石垣を検出し、この部分は西側の護岸石垣とは異なり、石敷き上に小礫を置き、その上に垂直に積まれています。

3段積みで高さは110cm遺存しています。この石垣は北側の護岸から張り出す出島状の施設か、独立した中島の石垣で張り出し部分に相当するものと考えられます。
 

 石造物は大正5年に抜き取られた穴から1,5m間隔を空けた地点で、現高150cm裾部厚72cm孔径9cmの花こう岩製で上部には横方向に孔を貫通させ樹立した状態のものと、抜き取り穴の東に接して調査区の南壁際から、長さ約270cm幅約200cm厚さ60cm平らな石塊の内側を槽状に刳り貫いたもので水を溜めて流す装置と考えられるものが出土しました。


 これにより石造物は南北方向に一直線に並び、段丘崖を利用して南方の高所から流水し、さらに池中への落水を意図したことが明らかになりました。
 このような大規模な施設をもった苑池は、同時に出土した土器から天武朝には確実に存在し、7世紀半ばの斉明天皇時代までさかのぼる可能性もあると推定される。日本書紀に、天武天皇が死の前年、天武14年(685年)11月「白錦後苑に幸す」とあり、今回の苑池が白錦後苑とすれば大変興味深い調査結果になります。


明日香での石造物


〇石人像

 1903年、石神遺跡から須弥山石出土地点の近くで見つかった。高さ1,7mの花こう岩製で、老人の男女が彫られている。足の裏から男女それぞれの口に直径2cmの穴が通り、噴水の仕掛けを持っている。

〇亀石

 高さ2m超の花こう岩の下部に目と口の細工があり亀がうずくまっているように見える。いつ何の目的で作られたかは判らないが、川原寺の四国(所領の四方の境界)を示す境石ではないかという説や、土俗信仰の所産という説もある。

〇出水の酒船石


 今回の苑池での調査で、池に水を引く庭石だったことが判明。レプリカ

〇岡の酒船石

 この石造物は現状では、長さ5,5m幅2,3m厚さ1mで花こう岩製。北側及び南側一部は欠損しており、近世にどこかに運びだされたものと考えられて、石割の工具跡がのこっている。石の上面に円や楕円の浅い窪みを造って、これを細い溝で結んでいる。酒をしぼる樽とも、あるいは、油や薬を作るための道具ともいわれている。しかし、この石の東40mのやや高いところで、ここへ水を引くための土管や石樽が見つかっていることから、庭園の施設だという説」がある。

〇須弥山石

 1902年、石神遺跡から出土。高さ2,3m花こう岩3段積みのダルマ落としのような構造で、上、中段は仏教世界の中心の須弥山、下段は水の波紋を表現する。四方へ噴出させる構造になる噴水の機能がある。中の石は下の石と直接つながらず、もう一石あったらしい。また、下の石の底面の構造から、別の石の上に乗っていたことがわかる。斉明天皇で日本書紀によると、659年(甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて陸奥と越との蝦夷に饗たまう)外国の使者たちを仏教の聖山須弥山を模した石像でもてなしたとある。

〇猿石

 1702年、欽明天皇陵南の田んぼから出土。僧、男、女、山王権現の4体が並ぶ。僧をのぞく3体は裏にも獣などの面が彫られている。

〇弥勒石

 飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石。石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されている。

〇入鹿の首塚

 645年暗殺される。


〇石舞台古墳

 横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。すでに古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ約7,6m、幅約3,5m、高さ約4,7mで大小30数個の花こう岩が使用されており、天井に使われている石の重さは北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2,300tという大規模な古墳であることが判明しました。


〇鬼の俎・鬼の雪隠

 封土を失った古墳の石室であり、もとは花こう岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個を組み合わせたものであった。いまは、底石(俎)、蓋石(雪隠)が分離して残っている。大化2年(646年)の薄葬令の規制に合わせて作られている。


〇甘樫丘


 展望台からは東に明日香村、西に畝傍山、耳成山が見渡せる。

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