はさみ山遺跡へようこそ!

はさみ山遺跡は、大阪府の南東部に位置する藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっていま
す。この場所は、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘と呼ばれるゆるやかな傾斜地となっています。
付近は、大昔から生活に適した地域であったようで、これまでの発掘調査により、旧石器時代から近世
にいたるまでの各時期の遺物や遣構がみつかっています。
特に旧石器時代では、国内でも数例しかない住居跡がみつかったことで、一躍有名になりました。縄紋
時代から弥生時代にかけての遺構や遺物は、ほとんどありませんが、古墳時代中頃になると「古市古墳群」
と呼ばれる巨大な前方後円墳を中心とする古墳がこの地域に数多く作られました。
奈良時代から平安時代になると、おぴただしい建物跡などがみつかっています。この時期、交通の要衝
となったこととも重なって、この地城に人々が集まり、活気に満ちた場所となっていたようです。
人々の中には渡来人達も数多く、彼らの中には寺院を立てるほどの力を蓄える者もいました。調査地北
西の葛井寺(ふじいでら)は、その名の示す通り、この地を本拠とした葛井(白猪)氏の氏寺と考えられています。

今回の調査では
今回の調査は、公団住宅の建て替えに伴うものです。この場所は、はさみ山遣跡の北端に相当し、現在
までの調査で、古墳時代から近世にかけての遣構や遺物がみつかっています。
これらのうち、最も注目されるものは、飛鳥時代の中頃(約1350年前)の建物跡がまとまってみつかっ
たことです。これらは、現在で46棟以上にも達し、周辺に調査が進めばさらにその数を増すものとみられ
ます。
中でもひときわ目立つのは、南部でみつかった4面に庇を持つ大型建物です。この建物は床面積が広い
ばかりではなく、周辺にやや規模の小さい建物や、倉庫と考えられる総柱の建物を配置し、さらに、その
周りに塀とみられる柱列や.小規模な壕と考えられる溝をめぐらせていることです。
このような整然とした建物配置を持つものは、当時の一般庶民のものとは考えられず、当時、この地域
を管埋していた役所に関連する施設か、地元の有力者の居館であった可能性が高いものです。





みつかった遺構と遺物
掘立柱建物
今回の調査では掘立柱建物と呼ばれる建物跡が多数みつかりました。この建物の特徴は、電信柱のように地面に穴を掘り、柱材を直接埋めて立てることです。
今同の調査でみつかった建物は、すべてこの方法で建てられていました.
柱穴からみつかった遺物から、これらの建物は、飛鳥時代の中頃から後半にかけて建てられたものと考えられます。飛鳥時代では、寺院の主要な建物などを除いて、その大部分が掘立柱建物で占められていました。
柱穴断面の写真では、このようにして立てられた柱がそのまま朽ち果て、埋め戻された回りの土とは異なった土質となっている状態を横から写したものです。
これらの建物は、調査区の中で、北と南の大きく二つの地区に分かれてみつかりました。


北群の建物

北側の建物群は.合計23棟を確認することができました。
その内訳は、主屋と考えられる梁行2間、桁行5間あるいは4間の建物と、副屋とみられる梁行2間、桁行3間ないし2間の建物、それに倉庫と考えられる梁行、桁行とも2間の総柱建物から成り立つものです。
これらの建物群は、それぞれの主軸方向や、重複関係などからみて、大きく4時期にわたって建て替えが繰り返されたものと考えられます。

南群の建物


  北より

  東より

  北より

南側の一群は、現在までのところ23棟確認されています。
北側の建物群と同様に、大きく4時期に分かれて建て替えられていったものと考えられます。この中で最も注目されるのは、前にも述へた大型建物を中心とする遣構です.
大型建物からなるこれらの遣構は、重複関係などからみて3時期目に建てられたものと考えられます。
建物群の東側を区画する溝には、破片となった土師器や須恵器が大量に埋もれていました。その種類に注目すると、杯や皿なとの食器類が非常に多く、煮炊きに使用する甕などが少ないという傾向がみられました。
このことから、どこか別の場所で調理した食べ物を、大型建物周辺に持ち運んでいた可能性が考えられます



 
調査区を南東から北西へと横断する溝が、古墳時代後期(1400年前)のものであることを除き、他のほとんどの溝は、建物群と同じ飛鳥時代の溝と考えられます。
これらは、東西や南北方向に堀り込まれ、先に述べた南群の大型建物の東側を流れる溝がそうであったように、北群の東と南側でそれを境として建物群がみられなくなる様子がみて取れます
  東側の区画溝から見つかった土器

この状況から、溝は排水の機能ばかりではなく、建物群と、それ以外とを区画する意味もあったと考えられます。
東西力向の溝では、二条が並走するようにして流れ、さらに、双方の溝底にも平行してのびる複数の細い溝がみつかりました。
これらの細い溝は、荷車などが通り、車輪が沈み込んだ時にできる轍とそっくりで、もし、この考えが的を得たものであるなら、
先に示した排水や区画という機能以外に、道路として使用される場合があったと考えられます。


井戸
北群建物の東側と南群建物の北西側で、それぞれ1基づつみつかりました。
南群北西端にある井戸は、穴の中に、古墳時代中期の円簡埴輪を枠として設置していました。
枠の内外からは、写真に示すような状態で飛鳥時代の土師器の杯がみつかりました。

枠の円筒埴輪と土師器の杯には200年前後の時間差があることから、
遣跡付近の古墳に並べられていた埴輸を、後の時代に再利用したものと考えられます。


北群建物の東側で見つかった井戸では、深さ3.5mまで掘削した中に、木材を組み合わせた木製の枠を設置していました。
枠内の下層から完全な形をした土師器の甕が数点みつかり、その形や建物との重複関係から、飛鳥時代の後半に掘られた井戸と考えられます。
なお、井戸枠には注目すべきもう一つの点があります。それは、枠の下段に使用された半円形の材木です。これは杉の木を加工したもので、
半円形の両端部分には長方形のほぞ穴が何ケ所か開けられていたことや、一方がややすぼまっていることから、
丸木舟に舷側板を組み合わせた「準構造船」を解体して再利用したものと判明しました。


  同時に出土した土器

当時、付近にある大きな川といえば東側を流れる石川が思い浮かぴますが、
あるいは、南西側に位置する「古市大溝」から運ばれてきた可能性もあります。



お墓
調査区内の2カ所で、掘りくぼめた穴の中に円筒埴輪を横たえた遣橋がみつかりました.これまでの調査例からみて、
遣骸や副葬品などはみつかりませんでしたが、円筒埴輸を再利用したお墓と考えられます。
円筒棺は、南群建物の北曲端でみつかりました。後の時代の開墾や、宅地造成によって上部を大きく削り取られ、
写真右上に示すような状態で、下半部がかろうじて残っている状態でした。

棺に使用された自筒埴輪を除去すると、右側写真中央のような状態で、別の埴輸片が4カ所に分けて置かれていました。
その配置状況がら、これらの埴輪片は横たえた円筒棺が動かないように固定するためのものと判断されます。
円筒棺2は、南群大型建物の北西側でみつかりました。石側写真の下段に示すように、この円筒棺も上部を後の時代に大きく削り取られ、
ド端部がわずかに残っているにすきません。出土状況をみていただくため、現在、内部の堆積土を除去した段階で調査を中断しています。
棺に再利用されたこれら2点の円筒埴輪は、いずれも5世紀代のものです。しかし、周辺の遣跡で見つかった例には、
飛鳥時代の土器が納められでいるものなどもあり、必ずしも.埴輪の製作された時代がそのまま、棺として利用された時代を表しているとは限らないようです。
今回の2つの埴輪棺も、他に古墳時代中期の遣構や遣物が見つかっていないことや、ともに飛鳥時代建物群の北西側でみつかっていることから、
この時代のものである可能性が高いものと考えられます。


まとめ
以下が現在までのはさみ山遣跡の調査で明らかになったことがらです。今回、飛鳥時代中頃に属する非常に大規模な建物群が確認されたことで、従来、奈良時代から平安時代にかけての建物群の印象が深かったはさみ山遣跡の内容に新たなる1ペーシを付け加えることができました。
このような大型建物が造営された背景には、律令国家の成立に至る過程で進んだ地方支配の強北、あるい
は、その実際の担い手として成長しつつあった地元有力者層の存在が考えられます。
今後、調査が進展する中で、さらなる新展開が起こり得る可能性もありますが、ここでは、大型建物とそれに関連する遺構についての予察を述べて、まとめに替えさせていただきます。

           はさみ山遣跡の調査  はさみ山遣跡現地説明会資料
           発行 財囲法人大阪府文化財センター      発行日2003年6月7日





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