非公式蛍池西遺跡調査報告書



1.筆を起こす
 1998年3月31 日、蛍池西遺跡調査団が
『大阪府豊中市蛍池西遺跡 −阪神高速道路大阪池田線  池田延伸工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書ー』
を発行しました。この蛍池 西遺跡の発掘調査は調査区をA・B・C・D・E区と5分割で行われました。
筆者は このうちのCー1区、Cー2区を実質的に担当致しましたが、同報告書においては簡略 に書かれ過ぎています。
これでは、共に汗を流した人々(すでに故人もいます)に 対しての責任を果たしたことになりませんし、発掘破壊した遺跡も
可哀相ですの で土層を中心にもう少し突っ込んで見たいと思い筆を取ったしだいであります。



2.蛍池西遺跡とは
 蛍池西 遺跡はすでに10数次の発掘調査が行われています。場所は阪急電車宝塚線蛍池駅の 西方、丘陵の坂をゆるく
下った所、阪神高速道路(通称空港線の付近です)



自然地形から見ますと、千里丘陵の北西地域である待兼山丘陵の低位段丘の裾部 (丘陵と平野との境)
に位置します。今日、付近には河川と呼べる河川は流れてな く丘陵を侵食した開析谷に伴う小河川が埋没していると
思われています。
旧 石器時代から近世まで断続的に遺構・遺物が検出されますが、弥生時代後期から奈良 時代が中心です。
旧石器時代は遺構が伴わないですが、ナイフ形石器が出土し、 付近の遺跡でも少数ながら石器等が見つかっています。
縄文時代は明確なものが 見つかっていません。
弥生時代は第W様式末頃のものから検出され始め、第X様 式その後の庄内式・布留式土器も出土しています。
古墳時代は前期中頃から集落 の想定が可能ですが、後期以降は密集土坑群が出現し集落を考えるのが
難しくな ります。尚、当遺跡東方の蛍池東遺跡において中期の6棟以上の大型倉庫群が検出さ れています。
奈良・平安時代は引き続き密集土坑群が見られますが、8世紀中頃 に終わります。当遺跡の北部では奈良時代
以降、その他地域でも平安時代前期に は耕作地になってしまうようです。10〜11世紀前期にかけて一部建物が
存在 しますが、集落としてとらえきれません。中世後期以降、近世を通して耕作地になっ たようです。
今回の調査地の南側での第一次調査で弥生時代終末期・庄内式期・ 布留式期の遺物を含む遺構が、第2次調査と
第14次調査で弥生時代終末期及び 古墳時代中期の遺物を伴う河川が、第16次調査で弥生時代後期以降の河川
と平 安時代以降の耕作に関わる溝が検出されています。

    
《 図ー2 蛍池西遺跡調査区位置図 1/5000 》

又、北側に位置する第3次調査では、弥生時代中期と古墳時代中期以降の大きな溝 (河川)が見つかっています。
今回の調査区の遺構はこれら近隣の遺構と関連を考 える必要があるでしょう。




3.今回の調査の概要

 A区(道路東側にてトレンチ調査)
  遺構面は北から南へ ゆるく下がる
  古墳時代前期の土器・木器を伴う谷地形
  密集土坑群
  弥生時代後期〜古墳時代及び平安時代中期の柱穴・土坑
  平安以降と 見られる耕作痕跡
  近世の素掘り井戸

 B区(A区西側にてグリッド調査)
  基本的にA区と同じ
  密集土坑、集落関連遺構
  耕作痕跡、河川

 C−3区(今回の調査地域の北西端)
  溝、柱穴
  Cー1区 Cー2区は本文にて

 D区(E区東側にてグリッド調査)
  弥生時代後期〜古墳 時代前期の遺物を含む河川
  密集土坑群、溝、柱穴、耕作痕跡

  E区(道路西側にてトレンチ調査)
  弥生時代終末期〜古 墳時代前期の遺物を伴う河川
  及び、同時期の土坑、耕作痕跡、
  全調 査区域を通じての標準土層は
 T層  盛り土
 U層  同耕作土、床土
 V層  にぶい黄色の極細砂の堆積層、耕作土
 W層  明黄褐色又にぶ い黄橙色極細砂〜細砂の堆積層
      10世紀〜中世前期(?)の耕作土
 X層  褐灰暗褐色 極細砂〜細砂の堆積層
      古墳時代後期以 降 奈良時代中心の耕作土か?
 Y層  褐色 暗褐色極細砂〜細砂の堆積層
 Z層  灰白色 極細砂の堆積層



4. Cー1区

《 図ー3 Cー1区、Cー2区遺構位置図 1/200  》

Cー1区 Cー2区は共にグリッドとトレンチを合わせたような 形状の調査区で
平行しています。現地表の耕作土面では、北東側がやや高く南西 側に一段
耕作面が下がります。



 4−1.基本土層

 
《 図ー4ーA Cー1区南壁面基本土層図 1/20 》


 《 図ー4ー B Cー1区南壁面基本土層略図 鉛直方向1/20 水平方向1/60  》

 基本土層は前述のU層 V層 W層 X層です
U層(@A)は 現在の耕作土@及び床土Aで、その上面は標高15.5mでCー1区全域で@Aの両 層
とも安定しています。
 V層(B系統)も耕作土で近世 中世のものであろ うかと思っています。かなり長期間にわたって耕作され
続けた為、耕作土と戻土 が混ざり合っていると思われますが、V層全体は基本的に暗黄灰色の土層と
灰黄 色の土層との互層であります。土質はほとんど変わりませんので今回の耕作土と戻土 の土色の関係から
暗黄灰色のB、Bー3、Bー7の3枚の土層は耕作土と推定し ています。すると残りの灰黄色の土層が全て
戻土かというとそうではなく、先に も書きましたようにすでに混ざり合って不明瞭になっています。
さらに私はいわ ゆる床土というものが、いつ頃から始まったのか知りませんので耕作土と床土のセッ トを
いつ頃までさかのぼって考えてよいのかわかりません。単に色調からそれら 3枚の土層が耕作土として
推定可能だということです。基本的に南壁面基本土層 図(以下壁面と略す)の5m付近を境に東側は高く
西側は低く堆積しています。
 W層(C)も耕作土又は床土であろうと思われます。B系統の土に比して粘性が 高く色調は黄色が強く
なっています。壁面の0.2m地点付近から出現して壁面 の4m〜5m地点以東はやや高く、西側は低く
なっていますが基本的には安定し た堆積です。
 X層(D)はいわゆる包含層で地山や遺構を覆っています。地山の 影響で溝ー2より東側はやや高いところに、
西側は低いところに堆積していま す。溝ー2の最上層のA土では違いが不明瞭で同一土層の可能性もあります。
色 調は暗黄茶灰色で複雑な色を呈し、土質はCと同じ粘質土です。Dが覆っている地山 が不自然にかなり凸凹を
なしているところを見ると、この土層も耕作された可能 性もあります。
なお、包含層というのは遺物を含んでいることを識別する為に包 含層と呼びます。包含層は色調が茶色や褐色を
呈する事が多いです。以上がCー 1区の基本的土層ですが、気になる点を2点ほど挙げて強引な空想をして見ましょ う。

 図ー4−Aは20分の1の基本土層図ですが、土層の変化を際立たせる為、垂直距 離は20分の1のままで水平距離を60分の1に縮めた図ー4ーBを作成してみました。2枚 の図を見た検討してみますと溝ー2の上位(壁面4〜9m地点)にて土層がよく変化し ています。つまりBー1が波打っているのから平坦気味へBー3の出現・消滅、Bー 7の出現です。
Bー3の出現・消滅は要因がよくわかりませんので別にすると Bー1が及びBー7の件は共に壁面5m地点付近で
起こっています。ここに耕作 土の一つの境界、すなわち畦があったのではないか、しかもその畦を境に東が高く西 が
低いという段があったのではないかと想像しています。それは地山の東が高く 西が低いという影響かと
思われます。そして畦等の高い箇所は次の耕作地改変等 の際に削り取られたのではないかと思っています。
この想像は次の点でも関係が ありそうです。

 地山は溝ー2の東側と西側で高低差が約7mで東が高いで す。Aの下面も上面も壁面7m地点付近kら西へ下がります。
Cの上面は壁面4 m地点付近から東へ少し下がり、壁面5m地点付近で小さな段を持ちます。Bー1で は変化は見られません。
どうも壁面4〜7m地点付近にて不自然な下がりが見られます。溝ー2はCー1区で は掘削していませんがCー2区の延長部での調査結果河川の如くで一様の堆積ではあ りません。砂・砂礫・粘土堆積し最終的に埋め戻されたようです。
つまり比較的締りの悪い土の堆積です。それが長い年月のうちに雨水の浸透や上位の 土の重さにより締まり下がることによって溝ー2の上位にある土も少しですが下がっ てしまった様に思われます。土層が均等でなく壁面が4〜7m地点区間が柔らかく締 りが悪かったので上記のような結果になっていると思われます。Bー1の頃にはもう 締まりつくし下がることは
なかったのでしょう。

 D(又はA)、Cと共 に耕作土の可能性があります。ともに4〜7m地点区間を挟んで東西で高低差がDの 上面で約7cm、
Cの上面で約6cmあります。D(又はA)は壁面4m地点付近 から緩やかに下がるため不明ですが、Cの壁面5m地点付近
の段が先ほど申しま した耕作地の一つの境で段があった痕跡ではないかと思っています。


 
《 図ー5 耕作土想像編年模式図 》 
 
そこには畦もあったであろうがCからBー7の耕作土に改変 する際に削られたのではないかと推定しています。
Bー7は壁面5m地点付近の Cの段から突如出現します。耕作土なら全体的に広がっていたと考え方が自然でしょ う。
壁面5m地点以東も段を境にしてCの上位にBー7はあったのではないでしょうか、 それがBー4に改変の際削平されてしまって今日では見られないのではと思います。
 C Dは土層の厚さ約5cm、Bー7も同じく約5cmですので、この消滅し てしまったBー7も約5cmの厚さだったのでしょう。
Bー4の壁面4m地点付近の小さな段は溝ー2の土の下がりに伴うものの可能性を述 べましたが、これも耕作地の境の段の可能性もあるかも知れません。
 尚、Bー4の上面ラインは途中からBー1に土がよく似て不明瞭になります。Bー 3は一段下がったようなところに約2mの幅で存在しますが実態はよくわかりませ ん。Bー1の上面は床土Aにより削平されている可能性はありますが Bー1の凹部 と上面の高さに大きな差がないために段差は解消されたようです。しかし壁面5m地 点付近を境にして上面の様相が大きく異なります。壁面5m地点以東は幅広く波打っ ていますが、西側はほぼ平坦です。
幅広い凸凹が畝を意味するのか何か不明ですが、この違いは耕作の方向、方法、種類 など何らかの違いと見られますので、ここに耕作地の一つの境を想定しても良いので はないでしょうか。なお現耕作土の床土形成の際にBとともにBー1の一部は削られ ていると見られるでしょう。
 Bはかなり削平を受けているのかBー1の凹部にのみ残存しているだけです。Cー 1区東部のグリット部では現耕作土、床土の直下は地山です。
 元はB系統の土 層が存在したであろうが削平されて今日では見当たらなくなっているものと思われま す。
そのグリット部で近世の時代のものである井戸が2基検出されています。
以上のように基本土層は耕作土の堆積です。延々と各時代の”一生懸命”が築き 上げた土層と呼べるかもしれません。



4−2 基本土層からの出土遺物
上記土層から細片ながら弥生土器から瓦器まで 幅広く出土しています。
A、B系統の土層から和泉型瓦器椀(復元口径約0.9 cm器高2.6cm)、
8世紀後半〜末の高台付須恵器杯(底部径8.9cm)や 施釉あろうかと思われる
9世紀後半の椀(高台径1.4cm削り出し蛇の目高台) 等が見つかっています。
但し残念ながらいずれも破片です。耕作土故に耕作に障 害のある大きな汚物(耕作者にとって遺物は汚物)
はとり除かれ耕され掻き回され ていますので残った遺物は砕かれていく運命です。



4−3 遺構
Cー1区において検出された遺構は 溝3条(溝ー2・3・11)井戸2基(井戸ー1・2)です。
(図ー3)溝は3条とも 北西から南東の方向です。

 ○溝ー2
溝ー2はCー2区 の溝ー2に繋がるものでしょう。幅約7mの規模、及びCー2区での埋土堆積状況確 認から
河川と呼ぶほうが適しているかもしれません。
Cー1区においては 溝ー2は発掘調査は行っていませんが、それは何らかの圧力が加わった為か私にも
本当に記憶にありません。どこの遺跡調査も今も昔も同じに当時かなり時間的制 約があったのは記憶しています。
私が遺構を検出しておきながら掘らないはずが ないので、もしかしたら
・・・・だったのかもしれません。今思うと非常に残念 です。埋土はCー2区も大差ないでしょうが
遺物が何が含まれていたかわかりま せん。

 ○溝ー3

  
《 図ー6 溝ー3土層断面図 1/20 》

溝ー3は大き く2層からなり下層は溝の開口していた当時の堆積した砂で水が流れていたようで す。
基本的に水が動いている(流れている)と砂が堆積し水が停滞(溜まっている) と植物が繁茂しやすくなり
泥や粘土(茶色・灰色)が堆積します。上層は暗黄茶灰 色粘質土と黄色地山粘土から成っています。
地山の粘土が埋土に含まれるという 激しい流水などで、地山を削り取ってくる以外に自然状態では考え
難いですので 埋め戻されているようです。地山粘土が溝の一方に片寄っている為、人為的に何らか の
意図を持って行われたかにも見えますが、掘っていた時の感覚はそういうもの が感じられませんでしたので
偶然地山のブロックが入っているのでしょう。なん にせよこの調査区の幅では人為か偶然かを確定するのは難しいです。
検出された のは地山面で幅0.6m深さ0.2m強です。溝ー2との位置関係及び方向からして Cー2区溝ー3に繋がるでしょう。
遺物はでてません。 

 ○溝ー11
溝ー11も地山面での検 出で、約0.6m深さ約0.35mです。埋土は基本的に(暗)黄茶灰色の粘質土で
溝ー3のような砂の堆積はありませんのでこの溝は掘られてあまり時間が経過し ないうちに埋められたように思います。
方向性及び埋土の近似からC−2区の 溝ー1−bに繋がっていると思われます。
遺物は出ていません。

  
《 図ー7 溝ー11土層断面図 1/20 》

溝ー2, 3,11の三条はC・1区で調査区の西半分で集中しており、すべて北西から南東の 向きです。
溝ー2は河川と呼べるような存在、溝ー3は流水が認められるいわゆ る溝、溝ー11はまるで溝として
機能させなかったような溝で三溝三様です。

 ○井戸ー1
井戸ー1はC−1調査区 の東部で井戸ー2と約1.5mの間隔でともに現耕作土及び床土直下の地山面にて検 出されました。
ほぼ円形で直径約0.9メートルです。
深さ2m位まで調査 しましたが以下は危険と判断して断念しました。

  
《 図ー8 井戸ー1土層断面図 1/25 》
 
  1、暗黄色砂質土
   2、暗灰色砂
    3、茶褐色粗砂
   4、暗褐色粗砂
   5、暗茶色粘土
   6、 灰色粘土
   7、暗灰色粘土
   8、暗灰褐色年度
   9、黄灰 色粘土
  10.暗青灰色粘土
  11、灰色粘土
  12、青灰色砂 質土
  13、青灰色砂質土
  14、黄灰色砂礫

上面では約0. 9mの直径ですが検出面下約0.9mの位置の直径約0.5mまで徐々に小さくなり ます。
そこで段(N側)形成し、以下直径約0.4mでほぼまっすぐ深く下がって いきます。この段及び埋土の状況から
基本的に素掘りの井戸ながら上部(段より 上)にはなんらかの構造物(井戸枠)があったのではな以下と思っています。
以下 空想してみます。

 この井戸は黄灰色砂礫層を掘りぬいていますが、それと 同様の砂礫が確認最下層で認められます。
断面図においてN側の段と反対側(S 側)壁面の凹みは井戸の掘削途中におけるものでなく使用中に
上部構造物?の最 下位から崩落してできたものかもしれません。
使用中素掘りのため、時々壁面が 少しずつ剥離崩落し堆積したものが確認最下層の可能性はあるでしょう。
そうす ると井戸の底は調査断念位置よりさほど深くない所だったのかもしれません。このよ うな崩落土の堆積が
井戸の機能低下を招き使用放棄の原因の一つかとも思ってい ます。黄灰色砂礫の上位にある青灰色粘質土及び
同色粘質土を、井戸としての使 用時の堆積土でなく井戸としての使用停止後の堆積土としてとらえてのことです。
つまり湧水を伴う井戸としての機能は、黄灰色砂礫の堆積による底上げでほとん ど停止状態になっってしまうが、
それで直ちに埋め戻すことはせず、雨水を中心 とする水溜めとして再利用されていた。
その際の堆積土が青灰色粘質土及び同色 砂質土でないかと思うのです。そして、その後埋められる。
確実に人為的に埋め られた土と言えるのは図ー8断面図の10〜1の土ではないかと、その10〜1の土 の
堆積状況から上部に構造物があったのではないかと考えたのです。
この観 点の弱点は、水溜としての使用中の壁面崩落土は断面にて確認できないという点にあ ります。
そうすると青灰色粘質土及び同色粘質土も埋め戻し土としたほうが良い のかもしれません。なお当時と今日の
地下水位の高さは異なるでしょうが、深さ 2m位まで発掘中井戸として機能できる程の湧水はありませんでした。
もちろん 当初からこれが井戸としてでなく水溜め等として掘られた可能性もあります。
  遺物は18世紀以降のものと思われる白磁の子椀の底部(高台径4.4cm)以外は
近世の陶磁の破片が少量出土したのみです。

 ○井戸ー2
 井戸ー2も円形で検出面では井戸ー1よりやや深く直径0.6mで す。ただ深さ約0.15m以下は直径0.5mで
ほぼ鉛直に掘られています。
井戸ー1の下部が直径約0.4mありますので、井戸本体自身は井戸ー2の方が 大きいといえるかも知れません。
深さ1m程掘削調査致しましたが、これも以下 は危険と判断し断念しました。
その検出面下約1mの位置にて暗灰色シルトの中 から藁状の植物遺体と網籠が見つかりました。
これが井戸使用時のものか否かは 不明です。
出土土層の暗灰色シルトをどう考えるかです。井戸ー1と同様に井 戸ー2でも井戸としての機能を果たさなくなると、
水溜として再利用されたのではないかと思っています。そのときの堆積土が暗灰色シ ルト、同色粘土及び暗青灰色粘土ではないかと推定しています。つまり網籠は井戸と して使用時のものでなく、その後の水溜めとして使用時のものでないかと考えていま す。それでは何故にそこに網籠があるか?何らかの目的で置いたものか、落としてし まったものかそれはわかりません。ただ落としたとしたら、縦になったり斜めになっ たりする可能性もあるのに正置状態という点からして前者の何らかの目的で置いた可 能性が高いと思われます。
   
 
《 図ー9 井戸ー2土層断面図 1/25 》
 断面図の4〜1は埋め戻し土で誤りないでしょう。地山土がブロック上に含まれて いる点から致しまして、出土遺物は16世紀頃と思われる土師皿(口径13.4c m)(器壁は火をうけて黒色を呈す)及び陶磁器の破片です。土師皿はこの井戸の時代 を示すものでなく泥入品の可能性が高く井戸ー2も井戸ー1とともに近世であろうと 思われます。
井戸ー1と井戸ー2の時間差はどうでしょう。これらの資料からで はどちらが新しいとも古いとも又併存したとも言えません。
井戸ー1、井戸ー2以外の近世の遺構がC−2区を含めて検出されていなく、基本土 層からも耕作地以外の集落や家屋敷地の痕跡を確認不可能なためこれらの井戸は農業 用水確保のために掘られたのでしょう。そして井戸としての機能停止後、清掃等の手 間のかからない水溜として再利用していたのではないか、水溜として放たらかし故に 井戸ー1の青灰色砂質土や粘質土、井戸ー2の暗灰色シルト、暗灰色粘質土、暗灰色 粘土が厚く堆積しているのではないか、普通自ずから井戸を掘ったままにしても代価 を支払って掘ってもらったとしても、その労力や代価故に大事にし清掃等を行うが、 一度機能が停止し労力を
用いずして再利用すると廃物感覚が生じ清掃等の手間をかけなくなるのではないか、 このように思えるのです。もちろんすでに書きましたが、井戸ー1,2とも井戸とし ての確証は得ていません。元々水溜め用であっても時間の経過につれて、清掃等の手 間を嫌うようになっていくと思います。人間にはそういう一面があると思われます。
いずれにしてももっと何らかの手段を考えて、安全に確実に井戸の底まで掘り きってその形態、堆積土層等をより
細かく観察し遺物を回収すべきであったと悔 やまれます。



5.C−2区

《 図ー3 Cー1区、Cー2区遺構位置図 1/200  》
     
C−2区はC−1区の南側に平行して設定され ています。

C−1区同様にグリッドとトレンチを合わせた平面形状です。

5−1  基本土層 

《 図ー10 Cー2区南壁面基本土層略 図−1 鉛直方向1/20 水平方向1/60 》


   @ (暗)灰黒色微弱粘質土  BA 黄灰色微弱粘質土    C 暗黄茶色 粘質土
   A 灰黄色微弱粘質土     BB 灰黄色  〃        D 暗黄 茶灰色 〃
   B                  BB´ 〃     〃         A  暗茶灰色半粘半砂土
                      BA´ 黄灰色  〃
                     BA”  〃  弱粘質土
                      BB-1 灰黄色微弱粘質土

《 図ー10 Cー2区南壁面基本土層略 図−2 鉛直方向1/20 水平方向1/60 
C−1区と同様の上層でU層、V層、W層、X層です。
 U層(@A)は現在の耕作土(@)及び戻土(A)でその上面は東端地区が標高1 5.6〜15.5m、東部1/3地区は
標高15.5m、南壁面基本土層略図 (以下壁面と略す)15.5m地点に段があり以西は標高15.4〜15.5mです。
段以東の東部1/3地区はC−1区のU層と同じ高さです。最東端地区TAが存在し ないことと調査区東より1/3地区位置(壁面15.5m地点)にて段を持ち10〜2 0mで下がる以外@、Aの両層とも安定してほぼ水平堆積しています。
 V層 (B系統)はC−1区と同じくかなり耕作により乱されていると思われますが、やはり 基本的には黄灰色の
土層(BA系統)と灰黄色の土層(Bb系統)互層を呈していま す。土質はほとんど変わりなく微弱粘質土です。そして
C−1区同様に土色から黄灰色のBA、BA´、BA″の3枚の土層を耕作土と推定し て灰黄色のBB、BBー1、BB″を戻土及び耕作土と考えています。
 最東端地区はBとともに存在せず@直下は地山です。この地区にもV層はあったで しょうが現耕作土を、整地する際に削平されてしまったのであろうかと思われます。 最東端地区の地山が東端地区の壁面0m付近と3.5m地点で4段階で下降すると共 にその下降して段を埋めるように順次BA、BBBA´BB″と各層厚10cm弱で出現 し、黄灰色土層(BA、BA´)と灰黄色土層(BB、BB″)のきれいな互層で西走し 壁面14〜15m地点でV層厚は30cm強あります。壁面16〜18m地点でU層同様 に段を持ち段以西は層厚15〜20cmと薄くなります。壁面17〜27m地点の10 m区間は他区間と比較してやや乱れ気味ですが壁面27m以西は、黄灰色土層のBA ・灰黄色土層のBB・黄灰色土層のBA´BA″のきれいな3層互層となります。
このCー2区のB系統の土層ではCー1区のように溝ー2の上位で不自然に下がるとい うのは目立ちませんが、後に述べますCDにおいて確認できています。
 BAは色調から耕作土としてとらえている土層です。地山の下降に伴って出現し、 壁面14m地点まで及び段(高低差約10m)以西の壁面18〜27m地点は層厚約 5cmで安定堆積していますが、壁面27m以西はBBの凹みにいり込んだような状 態になっています。これはAの戻土を整地する際にBAがBBと共に削平を受けた結果 と思われます。BAが壁面15mの地点で2m程途切れてBBが高まっているのは、段 に沿って畦道があるかのように見れますが確証はありません。BAはCー1区のBと対 応するでしょう。
 BBも地山の段に伴って出現し層厚5〜10cmで西走し壁面13m地点で層厚15 cmになり、高低差15cm位のゆるい斜面の段をもって下降し壁面27m地点以西 は凹凸の連続になります。Cー1区のBー1・Bー4はBBに対応するでしょう。Cー1区 のBー1がCー1区の壁面12m地点までの区間、大きな間隔で高まりが存在するのが BBの壁面4〜14m地点の凹凸の断続の状況にやや似ています。BBがCー1区にお いてB−1、Bー4の2層に分層可能であったかも知れません。特に壁面13〜17 m地点の区間は土層が厚いので特にその様に感じます。Cー1区でのBー1、Bー4 に挟まれたBー3に対応する土層はCー2区において認識できませんでした。調査区 ががはなれていると、土層の対応がきっちりできない場合もあります。
残念です が、なおBBー1の上部はBーBの可能性もあります。
 BBは色調から判断する と戻土のようでありますが、以下の理由により耕作されていたと考えています。
壁面4〜14m地点区間及び壁面27m以西の凹凸は現耕作土@に比較的合致してい ます。これは耕作の方向が南北方向であったのではないでしょうか。段以東は南北方 向から東西方向へ変わったのでしょうか、壁面17.5〜27m地点区間は畝状の高 まりが見られないということは東西方向の耕作方向であったのでしょうか、いずれに しても現耕作土@の段以東の畝が見えなく、段以西の畝が連続しているのに似ていま す。
 BA´BA″は分層致しましたが、大きく一つの土層ととらえても良いと考えていま す。壁面0m地点から層厚5〜10mで西へ伸び、壁面17.5m地点で約10cm の差の段を持ち一度不安定的に断続しますが、壁面27m地点から再び出現します。
 段以東のBA´はBA″の上に壁面7〜14m地点区間において確認できただけ で不明瞭です。
段以西は壁面27〜47m地点区間において厚さ約5cmで安定的に見れます。その 区間の途中、壁面35.5m地点にて下位のCが下降するのに伴ってBA´が再出現 し調査区西端まで5cm強の厚さで続きます。
但し、壁面49.5m地点でCが途切れてしまうとその分BA″が厚さ約10cmと なっています。BA´BA″は上記のようにCに影響されますが、その上面は基本的に 安定して平坦です。
 BA´BA″はCー1区のBー7に対応するでしょう。Cー1区のBー7もCー1区の 壁面3m地点でCの上面が下降するのに伴うかのように出現しています。
尚、 BBー1でBA′BA″が中断する原因及びBBー1の実態は不明です。
BB″は壁 面35m地点から発して壁面22m地点まで厚さ7〜8cmでほぼ水平堆積し、以西 は存在していません。
地山の下降するところから溝ー02上位の低いところにのみ堆積していますのであた かもBA″の耕作土を作り出す際に整地した土層かのように見受けられます。Cー1区 とCー2区の土層がほとんど対応するのにCー1区においてこのBB″が確認できない というのも整地した土層という推定の根拠の一つです。
 以上のようにBA″に 始まった壁面17.5m地点の段は場所を少し東に移動するだけで大きく変えること なく現代の
耕作土に受け継がれています。土層に歴史の一面を見たと思います。
 W層CはB系統の土に比べて色調は黄色が濃く暗黄茶色で粘性がやや強くBB″同 様に壁面3.5m地点の地山が大きく下降する所から溝ー02の上位にかけての壁面 21m地点までと壁面22m地点以西、壁面49.5m地点で途切れる区間に存在し ます。
 壁面21m地点以東は上面の標高が15.00mの壁面3.5m〜4.5m地点区 間と同じく14.95mの11.5m〜21m地点区間に高低により2分できます。 土層の厚さは前者のほうがやや厚く約15cm、校舎が約10cmですが両区間とも 上面はほぼ平坦です。
後者は大半が溝ー01の上位に位置する為Cー1区で述べましたように溝ー02の埋 土が締まることにより下がったことの影響も考えられます。
図ー10では判りにくいですが溝ー02の断面図 図ー13特に 図ー13ー3 で CがDAとともに溝ー02の上位で下がっているのが確認できます。Cー2区におい ては溝全体の上位において下がっています。
河川や溝は砂礫や砂や粘土で埋まる ことが多いので、このようにその上位の土層が下がっているのが時に見受けられま す。
特に幅が広く深い河川や沼の上位に位置する土層にはありえます。それが自 然堆積土であっても人為的な埋め戻し土であってもです。
 壁面22m地点以西のCも基本的には平坦に西は向かいますが、壁面35.5m地 点で段差を持ち全体的に約5cm下がり壁面49.5m地点で途切れます。この壁面 35.5m地点の段及び壁面49.5m地点で途切れるのは耕作の土境に関係がある ものと思われます。これは終章において推測してみます。CはCー1区のCに対応し ています。また、平安時代の耕作土と推定されているようです。
 X層DはC−1区同様に包含層で暗黄茶灰色を呈しCと同じような粘土質です。壁 面5m地点の地山下降部から溝ー2にかけて堆積し、溝ー02の埋土Aとの違いは不 明瞭で同一層の可能性もあります。再び壁面25m〜36m地点に見られますがCー 1区のように普遍的に存在していません。特に36m以西は見られません。Dも耕作 を受けている可能性はあります。DAもCに同じく溝ー2の上位にて下がっているの が確認できます。 (図ー15−3)
 以上のようにCー2区においてもCー1区と同様に基本土層は耕作土の堆積です。各 時代に影響を及ぼしながら現時代まで続いてきた土層の堆積でしょう。

5−2 基本土層からの出土遺物
 基本土層からの主な出土遺物は3点でいずれも破片です。瓦 質の羽釜2点(口径約17.6cmと約18.6cm)と瓦質の羽釜の
脚部で3 点ともV層(B系統)からの出土で中世の時代のものです。
 Cー1区でも述べ ましたように出土土層が耕作土のため出土遺物はどうしても破片になりがちです。

5−3 遺 構
 C−2区でにおいて検 出された遺構は溝ー10条(溝ー1〜10)と土坑4基(土坑1〜4)です。  (図ー3−11)
 溝は溝ー1−aと溝ー4を除いて全てCー1区同様北西〜南東 の方向で溝ー1−b、溝ー2、溝ー3は各々Cー1区の溝ー11、
溝ー2、溝ー3 の延長部でしょう。
土坑は土坑ー1以外の土坑2〜4は調査区西側に集中してい ます。

 ○ 溝−1
 溝ー1は2条の溝が合 流するもので、どちらが本流とも言いがたいです。東側の北東から南西方向の溝を 溝ー1−a、西側の北西〜南東方向の溝を溝ー1―bと言います。溝ー1−aは幅約 0.6m、合流部近くは幅約0.8m、深さ約0.2m(底面標高14.55m)、 溝ー1ーbは幅約0.6m合流部近くは幅約0.9m、深さ約0.2m(底面標高1 4.50〜14.60m)で底面にやや凹凸があります。合流部は幅約1.8m、深 さ約0.25m(底面標高14.50m)ですが、溝ー1−bの延長位置に深さ約 0.5m(底面標高14.25m)の凹部があります。


 
《 図ー11 Cー2区平面図 》

 埋土は4枚の土層から 成り ア層は基本土層のDと同一土の可能性もあり、合流部にしか存在しません。 
イ層はa、b両溝の主な埋土で粘質性及び地山粘土を小粒状含むことからして埋め 戻された土とも考えられます。 
ウ層は砂質性を考慮して溝の開口時(機能時) の自然堆積土かと思われますがa、b両溝ともに明確に 
ウ層を認識できませんので溝ー1は掘られた後それ程時間が経たないうちに イ層で 埋め戻されたと思われます。


        ア 黒灰色半粘半砂土 (地山粘土ブロック状 直径10cm含 む)
        イ 暗黄茶色粘質土   (  〃   小粒状 含む)
        ウ 暗黄茶色砂質土
        エ 暗灰黄色半粘半砂土 (地山粘土ブロック状直径15cm含 む)

 
《 図ー12 溝ー1 土層断面図 1/20 》

 エ層は合流部の凹部にのみ存在し、全く遺物を含みません。ウ層が溝の開口時 の堆積とすると エ層は何なのでしょう。
 エ層は凹部にのみ見られ溝ー1−b に凹凸があることから、溝の掘削時の掘りすぎを埋め戻した土でしょうか?
  溝ー1−bは溝ー2との位置関係、方向性及び埋土の類似からCー1区の溝ー11の延 長部と推定できます。
(溝ー11の埋土は(暗)黄茶灰色粘土質)基本的にa、b 両溝とも主に同じ イ層で埋まっているため、同じ時期と考えられます。
遺物は溝ー1―aから須恵器が2点出土しています。1点は口縁部が内傾し退化しつ つある杯身(口径12.6cm)も1点は平瓶の体部です。両方とも完形ではありま せんが基本土層出土の遺物に比べてかなり欠損部は少ないです。6世紀時代のものと 思われます。

 ○ 溝ー2
 
溝ー2はその規模、方 向性から明らかにCー1区の溝ー2の延長部と見られ、その規模(幅約6m)その土 層、流水により抉り取られた底面の凹凸の複雑さ、人手の加わった痕跡が見られない 事等からして(自然)河川と呼ぶほうが適しているかも知れません。 (図ー11)
 埋土は砂礫、砂シルト粘土、地山土等及びそれらが複雑に混ざり合った土と多 種多様な土から成っています。
(図ー13ー1,2,3,4)
 埋土層の概念を述べますと、基本的に砂礫層と粘土又は粘質土の互層です。つまり 最下層 Iの砂礫から始まり H層の粘土、G層の砂礫F層の粘土、E層の粗砂礫Dそうの 半粘半砂土、J層の砂、そして最上層Aの半粘半砂土です。そして東又は西側に下位に 砂礫又は砂及び粘土との混合土のN、M層、上位に粗砂又は砂質粘土のL、K層を堆積し ている箇所があります。このN、M、L、K層は先のA〜J層と明らかに異質に感じられま す。特にL、K層は色調や質が地山に似ています。溝の底面は凹凸が激しく凹部には  IやGが堆積しています。溝ー2に対する人為的痕跡は底面や壁面、川等及び各土層の 上面に認められませんが、D層は一部そしてB層とA層に地山粘土を含んでいるため、 これらの土層は埋め戻された土層かも知れません。
この溝ー2の土層を私流の読ますと実態不明の初期を含めて5回の流水期と3回の滞 水期と2回の埋め戻し期の計11の時期からなっているように思えてきます。土層に 応じて順に想像していきます。


    A 黒茶灰色半粘半砂土(東側は茶灰色砂質土)              G 暗黄灰色砂レキ(黄色レキ多い) Hを多く含む部分あり
    B 黄色地山粘土と黒灰色半粘半砂土の混合土              H 黒灰色粘土
        (下部は黒灰色半粘半砂土のみ)                    I  黒灰色粗砂レキ  
    C 暗灰色砂(青味かかる)                            J 黄茶灰色砂(地山粘土ブロック含む)
    D 暗茶(黒)灰色半粘半砂土〜砂質粘土(部分的に砂土を含む)   L  暗黄茶灰色砂質粘土
        中央部は暗茶黒灰色砂質粘土を含む                 M 黒灰色粘土と砂の混合
    E 黒灰色中粗砂レキ(微量地山粘土含む)
    F 暗(黄)黒灰色粘土(東側は暗黄茶灰色砂質粘土に砂含む

《 図ー13−2 Cー2区 溝ー2断面ー2 1/20 》



《 図ー13−4 Cー2区 溝ー2断面ー4 1/20 》

 
 
初期(K、L、M、N層)は土層が洪水などの流水で削り 取られほとんど残っていないので、実態が一番わかりません。ただ遺物の出土のない 事や土層が他の土層と異なる点で付近に人が住み着く以前の時代と見られます。いつ の頃からか、自然の流れが小さな河川となり次第に大きくなったのでしょうか。初期 の流水の痕跡は暗黄灰色粗砂礫層 Nと黒灰色粘土と砂の混合層 Mとして底面近く に残されています。砂礫や粘土と砂の混合から洪水など大規模な流水による堆積物と 思われます。
黒灰色粘土は流水がより上流でより以前に堆積していた土を削り取ったものでしょ う。この大規模な流水の前に安定的な滞水期が想像できます。Cー1区においても述 べましたが、基本的には流水状態では砂が、滞水状態では泥や粘土(茶色・灰色系) が堆積します。急な大規模な流水は堆積物を削り取って下流に運んでおり、再び堆積 させたりします。より強力な流水程大きく削り、大きなものを動かします。通常の流 れでしたら砂の堆積はありますが砂礫の堆積は少ないようです。それ故上記のように 考えた次第です。
 その後は厚く安定的に暗黄茶灰色砂質粘土 Lや(暗)黄茶灰色粗砂 Kが堆積して います。この2種類の土は地山土に似ていますから地山が雨水等、比較的ゆるい流水 により流出してしまったものでしょう。堆積規模からしてD層くらいまで埋まってい たのでしょうか、初期の規模は深さは最深部よりやや浅目で(標高14.15m)幅 はほぼ同じ位、溝ー2の北西〜南東方向より北でやや西へ拡がり南でやや東に拡がる 西北西〜東南東方向であったか又はやや蛇行していたのではないかと思っています。 それは初期の土層が土層断面図 13−1に東側に、断面図 13−3に西側に残存 していることからの想像です。
 この初期の安定を破ったのが溝ー2の中央を初期の底面を抉り、溝ー2最深部(標 高13.70m)を作り上げた1回目の流水で黒灰色砂礫 Iを堆積させています。 この流水が初期の堆積土をかなり削り取り、底面の地山を抉り砂礫(礫の径3cm) を堆積させていることから、かなり大規模な流水大洪水を想定しています。但しこの 大洪水が初期の堆積土を今日4断面で見れる程削ったか否かは不明です。次の滞水期 の土層 Hが西側にしかなく溝の東側は次の流水期土層 Gが堆積していますので G の流水も初期の土層を削り取っているも考えられます。何にしても溝の底の地山を抉 り取る勢いでした。(地山の抉れには何ら人為的痕跡は認められず形状も不定でし た。)
 大流水がおさまっての1回目の滞水期に黒灰色粘土Hが堆積しています。粘土の堆 積と粘土中にほとんど砂粒が見られないことからして水はほとんど淀んでいる状態 だったのではないでしょうか、粘土中に根の痕跡であろう茶色の斑点が見られるので 水辺の植物、アシやススキ等が繁茂していたのかも知れません。H層は厚さ約0.4 mもありますのでかなり長期間安定していたのでしょう。そしてこの期間で溝ー2の 底が再び上がりました。もちろん初期にもこういう堆積土はあったのでしょう。それ が Mに砂と共に含まれる黒灰色粘土が示していると思われます。
 2回目の流水がHの大半を押し流し、代わりに堆積させたのが暗灰色砂礫Gです。1 回目の流水期の堆積物 Iも同時にかなり流失させています。但し初期の土層を削り 取ったか否かは確認不能ですのでその可能性は十分ありえるとだけにしておきます。 Gの砂礫層は中に粗砂層の部分があったり削り取ったHを含んだりしています。この流 水は1回目の流水(大洪水)より主に東側を勢いよく流れたようで1回目よりやや浅い とはいえ1回目の流水が抉り込んだ東側に新たに地山を抉り込んでいます。Hや Iの 流失量、Gの礫径3cm、地山を抉り込んでいること等からこの2回目の流水も1回 目の流水(大洪水)に負けず劣らずの大洪水であったと考えています。
 再び滞水期に入り(2回目)Fが堆積しています。FもHと同様に暗黒灰色粘土です が、部分的に(主に東側からの)砂を含んだり薄い砂層や炭層を挟んだりしていま す。土質からしてHの滞水期とほとんど似た環境でしょうが、Hでは確認不可能だった 地山の高い東側からの流れが推定できます。砂は主に雨水による流水に伴って地山土 の流失でしょうが炭層形成の主因はわかりません。この滞水期も長期間だったようで 土層の厚さは約0.4mあります。これでかなりの底上げになりました。
 三度流水期に入りFを削り黒灰、暗灰、暗茶灰色の粗砂及び砂礫Eを堆積させます。 今回の流水は前回の流水期のHに対して比べてFに対して削り残しが多いため、前回 (2回目)より流水の勢いが弱かった可能性があります。それはEの堆積量や礫の径 がIやGの3cmに対して今回のEは半分の1.5cmしかないことも示しているかと思 います。それでもE層中Fや地山粘土を含んだり、Fを引き伸ばしたり地山の地すべり を起こしていますので、尚このE層の中から須恵器の(はそう)と読む特に考古学で須恵器の一器形にあてた名。丸い胴部に小 さい孔があけられた口の広い小形壺。穴に竹の管を差し込み、液体を注ぐのに用いた とされる。)が
体部から頸部にかけての一部分ですが出土しています。この土層は洪水によるもので すからより上流から流されてきたものかもしれませんが、この流水=洪水が古くても 6世紀代に起こったことが判明します。この洪水は主に西側を流れたようです。これ までの流水=(大)洪水、滞水の繰り返しからみると溝ー2は常日頃水が流れず、滞 水状態で洪水時にのみ大流水が起こる河川といえるのではないでしょうか
 そして3回目の滞水期に入りますが、前2回の滞水期とやや異なり案茶黒灰色砂質 粘土Dが堆積していきます。前2回の堆積土より色調がやや薄く砂も含むようにな り、特に溝中央部の堆積物にはかなりさを含みます。しかも前2回の比較的単純土層 ではなく、やや複雑な土層になっています。岸辺は砂質土や半粘半砂土等、常時滞水 状態を想像しにくく中央部に砂を含むことから、中央部にはそれなりの水の流れも考 えなくてはならないと思っています。岸辺のほうから中央部へ向けての雨水などの流 水に伴うであろう砂粒の動きを確認できた場所もあります。また岸辺が地すべりして いる箇所も見受けられました。このD層で気になる事は、断面図ー13−1でD層の西 側において地山ブロックを含んでいる事です。このような自然堆積で地山ブロックが 含まれるのは不自然です。また土層の厚さも他の断面の厚さに比べて不自然です。こ の箇所は一部人為的に埋められた可能性もある事を記しておきます。後で気づいたの ですが、時すでに遅しでもう調べなおしができませんでした。
 4回目の流水期はさほどの威力もなく大規模に削ることもしていません。それは堆 積物が暗灰色砂Cと過去の流水期と違い砂を主体にしていることからもわかります。 この4回目の流水を期に人々は溝ー2も埋めるようです。その埋めた土がBの地山粘 土のブロックを含む暗灰黒色粘質土です。D層で気にかかったのはこれです。地山の ブロックです。通常地山のブロックが土層に入るのは、洪水等の大規模な流水が削っ て堆積させた土層か人為的に動かした土層が多いのです。Dは自然堆積と考えていた のに、断面図ー13−1のDの西側に地山ブロックが入っているのが気にかかったの です。
 その埋めている途中に流水(5回目)があったのではないかと考えようとしている のがJの黄茶灰色砂の堆積です。疑問符をつけているのは、これも不自然でこのJの砂 が堆積しているのを確認できるのは、断面図13−1と13−2のみで他の断面には その痕跡すら見れないことです。これは想定が誤っている可能性もあります。
 その後再び埋め始めた土がAで暗茶灰色半粘半砂土です。このAは基本土層のDとの 違いが不明瞭なので同一層の可能性も考えています。
 今、断面図でみるとAは明らかに溝の中に入っていますが、これはすでに述べまし たように溝−2の堆積物が雨水のしみこみや土の重さ等で圧縮沈下した結果Dがつら れて沈下したのではないか、それを溝の中に入っているから溝の堆積物Aとして基本 土層Dと誤って区別してしまったのではないかとも思っています。もちろん全てが沈 下したものでなく溝を完全に埋めてしまった土でもって、溝の周辺の低い箇所も埋め られたのではないかそしてその一部溝−2の上位に位置していた土層が下がることに より、より溝の中に入り込む量(厚さ)が多くなったのではないかと今考えていま す。
発掘当時にもう少し詳しく調査しておけば良かったと。公開しております。
 以上が溝ー2の土層断面から想像した溝ー2の歴史ですが簡略に記します。

初 期 K L M N
初回流水期 黒灰色砂礫
初回滞水期 H 黒灰色粘土
2回目流水期 G 暗灰色砂礫
2回目滞水期 F 暗黒灰色粘土
3回目流水期 黒灰暗灰暗茶灰色粗砂礫
4回目滞水期 D 暗茶黒灰色砂質粘土
4回目流水期 C 暗灰色砂
初回埋め立て B 暗灰黒色粘質土(地山ブロック含 む)
5回目流水期? J 黄茶灰色砂
続 埋め立て A(=D)? 暗灰色半粘半砂土


ということで流水は初回、2回目の大洪水をさせるものから回を重ねるたび に威力を弱めています。滞水期は当初の沼を
思わせるような粘土の土層から流水 を少しずつ伴うかのように砂を含むようになり、常時滞水状態から抜け出していくよ うな
土層を見せています。
 溝ー2の上部にて土師器の長胴甕 や7世紀中 葉〜後葉にかけての須恵器の杯のものと見られる蓋が出土しています。
残念なが ら破片です。それ故に7世紀には埋まってしまっていると思われます。但しE層出土 のも同じですが、6世紀代や
7世紀代の遺物が出土したからと言ってそ の出土土層を出土遺物の年代に即断で当てはめるのは危険です。河川や等からの
出土、出土物が破片や少量の場合は特にです。別の場所から流されてきた土や人が埋 める為運んできた土がより古い時代の
土でそれに遺物が含んでいる可能性がある からです。ですから出土遺物は、その出土土層は古くてもその出土遺物の年代で
あることを示しています。溝ー2の場合、7世紀中葉から後葉以降の時代に埋まって しまったと言うことです。

  〇溝ー3
溝ー3は地山面 検出で溝ー2にほぼ平行に北西から南東方向の溝で、南壁際の溝ー5と合流していま す。(図ー11)
検出幅は北西側東部区域で約0.9m〜10m、南東側半部区 域で最大約18m、溝ー5との合流部で約15mを測ります。
検出面からの深さ は北西側半区で約0.3m(底面標高は14.65m〜14.75m)南東側半区は 2段になり、上段は
約0.15m〜0.2m(底面標高14.65〜14.75 m)下段は約0.3m(底面標高は14.55m〜14.70m)南壁面際で
約 0.2m(底面標高は14.65m〜14.70m)です。尚、下段の幅は約0. 2〜0.4mで溝ー3の断面ー5付近から始まり
(その北側にも延長部の凹みは しますが)溝ー5との合流地点付近で自然消滅します。

 埋土は基本的には 3層から成り、下層は暗黒灰色 又は暗茶色の砂【キ】中層は暗茶灰色半粘半砂土 【カ】上層が
暗黄茶灰色半粘半砂土【オ】です。
 

 
《 図ー15 溝ー3 土層断面図(1/20) 》

 オ   暗黄茶灰色半粘半砂土
 カ  暗茶灰色
 キ  暗黒灰色、暗茶色砂(灰 黒色粘質土のブロック地山粘土粒状を含む)
 ク  暗(茶)灰黒色半粘半砂土



 
《 図ー14 南壁面土層断面図(1/20) 》
         (溝ー3、4、5、6、7 土拡ー2、4)
 【オ】  暗黄茶灰色粘質 土〜半粘半砂土
      地山粘土を含むが、均等にではな(多量に含む所や 少量、又は微量にしか含まない所がある
      西側の【キ】)層はキを含 む

 【カ】  暗茶灰色粘質土〜半粘半砂土
      同色の砂や地 山粘土ブロックを含むが、共に均等に含まない
      西側に行くにつれて 暗茶黒灰色粘土に砂を含んだような土になる
 
 【キ】  暗茶黒灰色・暗 灰色砂または暗黄茶灰色砂
      地山粘土ブロックや地山粘土粒を含む

 【キ】ー1  暗茶黒灰色砂と同色粘質粘土の混合
         地山粘土ブロックを含む  

 【キ】ー2  暗茶灰色粗砂 同色粘土を含 む

 【ケ】  暗灰色砂  (耕作痕状の溝)
 【コ】  暗灰色砂   青味かかる 西側は地山含む
 【コ】ー1 【コ】に同じ 溝ー4
  【サ】  暗(黄)茶(黒)灰色砂と地山粘土の混合
 【シ】  黒灰色粘土   こげ茶斑点あり 砂少量含む
 【ス】  暗灰色砂ベースに暗灰色粘土含む  こげ茶斑点あり
 【セ】  暗灰色砂

      以上 【オ】〜 【セ】は溝3、4、5、6


 【ソ】  暗黄茶灰色粘土  溝ー7
 【ノ】  暗(茶)灰黄色半粘半砂土  地山粘土少量含む
 【ハ】   暗茶黒灰色
 【ヒ】  地山粘土をベースに黒灰色半粘半砂土を含む

      以上 【ノ】〜【ヒ】は土拡ー4


 【マ】  地山粘 土、地山粗砂をベースに暗灰色砂と暗灰色粘質土をブロック状に含む
 【ミ】ー 1  暗灰色粘質土
 【ミ】ー2  暗茶黒灰色半粘半砂土  地山粘土少量含 む
 【ム】  地山粘土、地山粗砂をベースに黒灰色及び灰色粘質土をブロック 状に含む

     以上 【マ】〜【ム】は土拡ー4


南東側半区の溝の幅が広くなった両側部分にのみ、最下層として暗(茶)灰黒色半粘 半砂土【ク】が残存しています。
下層の砂は溝ー3が開口時の流水に伴う堆積で しょうが、灰黒色粘質土がブロック状に、また地山粘土がブロック状及び
粒状に 含み、南東側半区の下段にこの砂が堆積している点からして、下層の砂は通常の流れ に伴うものでなく急な流水に
伴うものであるかと思われます。通常の安定的な流 れでしたら、砂の堆積が一枚一枚が薄く重なりブロック土もなかなか
含むことは 少ないです。そして底面に2段目を形成し難いものです。それ故に溝ー3の下層の砂 を洪水等急激な流水による
堆積と想像しています。中層と上層は粘質土系の土に 地山粘土のブロックを含みます。これらは自然堆積土ではなく、人為的
埋め戻し 土と見ています。
 最下層の土はどう考えれば良いのでしょうか?かなり強引で すが以下のような考えはどうでしょう。溝ー3は掘削後雨水による
流失で一部幅 が広くなったその部分を含めて溝全体に最下層は薄くながらも堆積していた。しかし 下層を堆積させた流水が残存
している箇所を除いて押し流してしまった。という のはどうでしょうか?はたまた溝ー3を当時掘削する際に、幅広く掘りすぎて
し まった部分を埋め戻した土つまり溝ー3は幅約1.0mで掘られた、掘りすぎた箇所 は埋め戻して幅約1.0mに直した。
というのはどうでしょうか?
但し、ど ちらの想像も欠点をもっています。前者はそううまく最下層を押し流すものであろう かと、後者は掘りすぎた部分に
掘りすぎた土(地山土)でなく何ゆえに別の土で 埋め戻したのかと、下層の砂【キ】に最下層【ク】の土を流失させたであろう
灰 黒色粘質土のブロックが含まれている為、私は前者の考えで良いのではなかろうかと 思います。土がそこにあるには
必ず何らかの原因が存在します。自然堆積にして も人為的移動にしても、だから土の違いを確認できたら、各土層の
その成因をそ の場で考えておかないとこういう不明瞭な堆積になってしまうのです。これは調査の 失敗例です。
つまり最下層の土の堆積状況は不明です。尚 溝ー3が人為的に掘 られているという根拠は下層の砂の堆積時の
幅が約1.0mで溝の底面が下段は 流水が削りこんで形成させたと思っています。
 尚、溝ー3は溝ー2に対する位 置関係、方向性、及び埋土からCー1区の溝ー3の延長部と見てよいでしょう。
   

   〇溝ー4

《 図ー16 溝ー4土層断面図(1/20) 》

溝ー4は 他の溝と方向が異なりほぼ北〜南方向の溝です(図ー11)
南壁面土層断面図 (図ー14)をみると溝ー5より新しい時期の溝というのが判明します。検出は地山 面で幅約0.4m、
深さ約0.1m(標高14.70m)です。埋土は暗灰色砂 のみです。溝の方向から他の溝とは性格の異なるものでしょう。

   〇溝ー5、6
検出当初、溝ー6は北 西〜南東方向の溝。
溝ー5は溝ー6に接して北西-南東方向から東へ向きを変 え、溝ー3に合流する溝と思っていましたが、(図ー11)、
調査区の南壁面 (図ー14)を検討した結果、始め溝ー6が存在し、埋没してゆく途中にて溝ー5が 派生し、基本的に両溝は
一体のものであろうと推定できます。
 検出は地山 面においてで、狭義の溝ー6の幅は北側で約0.9m、南側で約1.1m、溝ー5を 含めての広義では
約3.3mの幅を持ちます。溝ー6の西側にも雨水等の流水に よるであろう凹みがあります。深さは溝ー6の部分で
約0.45〜0.50m (標高14.35m)溝ー5の部分で約0.15〜0.20m(同14.70m) 溝ー5内には一部深いところが
存在し、そこは約0.35m(同14.50m) になります。
 初め人為的なものか自然のものか判断不能でしたが、幅約0.9 mで北西〜南東方向に溝ー3とともに溝ー2に平行に
溝ー6が存在していまし た。
その底には最下層に当たる暗黄茶色・暗灰色砂【セ】が堆積していますの で、開口当時流水があったことが想定できます。


《 図ー17 溝ー6 土層断面図(1/20) 》
 
【キ】 暗灰色 暗黄茶色砂(地山土を粒状に少量含 む)
 【サ】 暗黄茶色砂と地山粘土の混合
 【シ】 黒灰色粘土
  【ス】 暗灰色砂ベースに暗灰色強粘質土含む
 【セ】 暗黄茶色・暗灰色砂

底面近く溝の壁面には、流水で形成されたであろう凹みも見うけられますの で、それなりの流れはあった様子が窺えます。
その後、流水の勢いが弱まり滞水 化しつつあるのか、暗灰色砂に暗灰色粘土(強粘質土)を含む土層【ス】に変わり、 ついに
滞水状態を示す黒灰色粘土【シ】の堆積になります。この粘土には、植物 の根によるものであろうコゲ茶色の斑点が見られる為
かなり草々が繁茂して、水 が流れにくくなっていたものと思われます。
粘土の厚さは薄いところで5cm、 厚いところで15cmあり、長期間滞水状態が続いたようです。
 そして急に暗 (黄)茶色砂をベースに地山粘土、暗灰色砂、暗灰色粘土の混合された土層【サ】に 変わります。
この土層は不自然に地山粘土等を含む点からして人為的に埋められ た可能性があります。これら【ス】〜【サ】層は
土層の質や堆積状態から溝ー2 のD層も断面図13−1の西側において人為的に埋め戻された可能性を示していま す。
他の断面においてそのような痕跡はほとんど見当たらないので(図13−3 のD層で肩部に地山粘土を含みますが)
溝ー2の南部地域西岸において埋め戻し がなされた際に溝ー6においても一部埋め戻されたと思われます。
尚、溝ー6の 【サ】の埋め戻しは土層の状況から、両側より行われたようです。
【ス】〜 【サ】層が溝ー2のD層に対応すると、最下層【セ】層は溝ー2のE層に対応する可能 性も高いと
推測しています。この時点で溝ー6はほとんど埋まっていたようで す。溝西側の雨水の流水によるであろう凹みも
埋められています。
 そこに 溝ー2の4回目に当たる流水が発生します。かなり埋められていたがために溝ー6を 流れた水が暴れ、
東側にあふれ出し溝ー5を形成し溝ー3に合流してしまったよ うです。その意味では溝ー5は自然流路です。
東側に溝ー5を形成した理由とし て元々溝ー6の東西両側に雨水の流水により削られた溝ー6に向かう斜面の凹みが
あったでしょうが、西側は【サ】層で埋められてしまっていて東側は未だ埋めら れていずに凹みが残っていた事が想像できる。
つまり水がそこを流れやすい要素 が存在したのでしょう。
もちろん人為的に溝ー5を掘った可能性も考えましたが 溝ー5に人為的に掘った痕跡が残っておらず、又溝ー6を
流れるであろう流水を 急に東へ向けて溝ー3に合流させる必要となる積極的根拠も考え浮かびません。

  
《 図ー18 溝ー5土層断面図(1/20) 》

  


   D  基本土層             カ   暗茶灰色粘質土
   オ  暗黄茶灰色粘質土       キ-1  暗茶黒灰色砂と同色砂質粘土 の混合
   コ  暗灰色砂             キ   暗黄茶灰色砂
   コ-1 〃  (溝−4)         キ-2  暗茶色砂質土、同色粘 質土、地山砂の混合

この流水による堆積土層が暗灰色・暗黄茶色砂【キ】で溝ー5においては、 砂質粘土や削り出した地山粘土を含む
暗茶(黒)灰色砂【キ】−1・2です。
砂質粘土や地山粘土を含むのは流路を削り込んだが為でしょう。又その際に人が掘っ た穴(土拡)があり
破壊したのか又は流水が削り込んだのか溝ー5内の一部の深 い凹みにもこの暗黄茶灰色砂【キ】が詰まっています。
溝ー5・6の【キ】層は 溝ー3においても下層の暗黒灰色また暗茶色砂【キ】として確認でき、溝ー3と溝ー 5は同時期で
あることがわかります。そしてこの砂層は土層の順からみて溝ー2 のC層に対応していると思います。
 この流水が落ち着くと溝ー2同様に大規模 に溝を埋め始めます。それが溝ー5・6の暗茶(黒)灰色半粘半砂土〜粘土【カ】で
埋め土の中に一部流水堆積の砂【キ】、【キ】−1も一部含んでいます。これは 溝ー3の【カ】でもあり、
溝ー2のBに対応すると思われます。
埋めた途中 で流水があったようで暗灰色砂【コ】が堆積しています。溝ー4もこの砂で埋められ ています。
溝ー2のJに対応すると考えています。
溝ー2においても述べま したが、このJと【コ】は問題のある土層でごく一部では確実に砂が堆積存在してい るのに、
広範囲ではその痕跡すらないのです。つまり溝ー3ではこの時期砂の堆 積存在が見られません。自然流水による砂と
思えますので、もっと広範囲に存在 して良いと思います。
人為的に運んで埋められたとしても、他に入れたり零すこ となく溝ー2と溝ー5・6の一部にのみ埋めたのが不思議です。
とにかく不自然 な理解不能な砂です。溝ー4は他の溝と方向が異なる他、地山面に残る耕作痕とも方 向が異なり、
その用途等は不明ですがここにおいて相対的埋没時期及び状況がや や判明しました。その後溝ー2のAに対応する
暗(黄)茶灰色半粘半砂土【オ】 をもってして完全に埋められ、溝ー2東側から溝ー6まで平坦になります。尚この 【オ】も
A同様にDとの違いが不明瞭で同じ土層の可能性があります。
 以 上のように溝ー2・3・4・5・6は一部同時期に存在したことが判ります。

溝ー2 溝ー3 溝ー4 溝ー5 溝ー6
A 【オ】 【オ】 【オ】
J 【コ】(コー1) 【コ】
B 【カ】 【カ】
C 【キ】 【キ】【キー1・ 2】 【キ】
D 【サ】【シ】【ス】
E 【セ】

 始まり時期は各々異なる溝ですが、溝ー2・3・5・6は同時 に、A=【オ】で埋め尽くされます。そしてこのA=【オ】は
何度も述べますが、 Dと同一の可能性がありDは溝ー5の上位において消滅して以西は存在しません。
単なる第六感においてですが溝ー3・6とも人為的に掘削したと思われますがそ の痕跡は存在しません。
溝ー5はすでに述べましたように自然流路として考えて います。
 遺物は溝ー5内の一部深い凹みの【キ】土層から、内面にナデを施し た粗雑感のする奈良時代末から
平安時代前期の土師器の大皿が出土しています。
他に7世紀後半頃の土師器杯も出ています。溝ー2・3・4・5・6の時期を考 える一つの資料ですが流水による
堆積土からの出土ですので注意が必要です。
 

     ○溝ー7 


   ソ 暗黄茶灰色粘土
 
《 図ー19溝ー7土層断面図 1/20 》

 溝ー7は 溝ー3・6同様に北西・南東方向でほぼ平行しています。地山面にて検出され幅は北 西側で約0.4m、
南東側で約0.5m、深さ約0.1m(底面標高14.80 m)の浅いものです。
 埋土は暗黄茶灰色粘土のみで砂は認められませんでした ので、開口期間は短く掘削後あまり時間が
経たないうちに埋められたのでしょ う。
南壁面図ー14で土拡ー4より新しい時期のものであることが確認できま す。また埋土は基本土層のCより
色調が濃いとはいえCに似ています。
特に 埋土上部が似ています。溝ー7、土拡ー4の辺りはCが一時途切れて溝ー7の上位は B系統の土が覆っています。
溝ー7の埋土とCの関係は注意が必要かも知れませ ん。


    ○溝ー8


        タ   暗黄茶灰色強粘質土
        チ   暗黄茶黒灰色粘土 (地山少量含む)
        タ-1 黄灰色砂質粘土 (地山に似る)
        チ-1 暗黄茶灰色砂質粘土
 
《 図ー20 溝ー8土層断面図 1/20 》


 
溝ー8は地山面検出で溝ー7の西側約0.8〜1. 0m離れて平行に北西・南東方向に走る溝です。幅は北西側で
約0.8m、南東 側で約0.5m深さは約0.35〜0.30m(底面標高14.60m)です。
 埋土は上下2層から成り、下層は暗黄茶黒灰色粘土、暗黄茶灰色砂質粘土、上層は 暗黄茶灰色強粘質土で
ともに地山土を少量ながら含んでいます。
溝ー7土応 用にさの堆積は確認できませんので、同じく掘削後短い期間で埋め戻されたようで す。
埋土は溝ー7とともに同じような粘土ですが、溝ー7の方は地山混入がほと んど無かったに近く、溝ー8は少量ながら
含むものがやや異なります。
溝ー 8の上層では溝の両側に地山に似た黄灰色砂質粘土Hー1(多分一度掘り返され汚れ た地山土)の塊が確認できる
箇所がある為、上層は埋め戻されたのは明らかと思 われます。
しかし、何らかの意図を持って両側に地山に似た砂質粘土をつめたの ではないようで、偶然の可能性があります。
意図を持つのであれば、より広範囲 になされても良いはずでしょうがそうではないためです。
下層の粘土は溝ー7同 様に滞水に伴うものでなく埋め戻された土のようです。
 地山面の検出で上位は 基本土層のCが覆っています。溝ー7と溝ー8は深さが異なりますが、
約1m離 れて平行に走り埋土はやや異なるとはいえ埋め戻された粘土であるという共通点から 何らかの関係がありそうです。

  ○溝ー9


   ツ 暗黄茶灰色粘土
   チ 暗茶灰色砂(若干粘性あり)
 
《 図ー21 溝ー9上層断面図 》

 溝ー9は調査区西 端地山面で検出され、同じく北西〜南東方向に溝ー7・8に平行に走る溝です。幅は 北西側で
約0.7m、南西側で約0.6m深さは約0.1〜0.15m(底面標 高14.80m)の浅い溝です。
 埋土は2層に分層可能で下層は若干粘性のあ る暗茶灰色砂で、上層は暗黄茶灰色粘土です。溝ー7・8とは異なり
下層に砂が 認められますので掘削後溝ー7・8よりは長い期間開口して、水が流れていたと思わ れます。
上層の粘土はやはり埋め戻し土のようです。
 溝ー9の上位は基本 土層のB系土が覆います。C層土は溝ー9の東方約1mの地点で途切れています。
 溝ー7・8・9も溝ー3・6同様に溝ー2に基本的に平行です。積極的な痕跡 も根拠もありませんが、
溝ー3・6・7・8・9ともに人為的に埋められたもの と思われますが、方向的には全てが最も古い溝ー2の
影響下にあるといえるで しょう。溝ー3・6は溝ー2との時期的関係は推測可能でしたが、溝ー7・8・9に ついては
不可能でした。
いずれも最後は埋め戻されているといのは同じで す。しかし興味深いことに似たような土で埋められています。
溝ー2のAは暗茶 灰色半粘半砂土(図ー13−1は暗黄茶灰色半粘半砂土地山粘土を含む)溝ー3の 【オ】は
暗黄茶灰色半粘半砂土、溝ー5・6の【オ】は暗(黄)茶灰色半粘半砂 土、溝ー7は暗黄茶灰色粘土、
溝ー8のHは暗黄茶灰色強粘質土(地山少量含 む)溝ー9の【ツ】は暗茶灰色粘土、そして基本土層のDが
暗黄茶灰色粘質土、 Cが暗黄茶色粘質土です。

  ○溝ー10


    ト    暗茶灰色粘質土
    ナ   茶灰色砂(地山粘土微量含む)
    ナ-1 (黄)茶灰色砂
 
《 図ー22 溝ー10土層断面図 1/20 》

 溝ー1 0は調査区東壁際の地山面で検出された遺構です。西側のかたのみ一部分で、大部分 が調査区外ですので
どういう遺構かはわかりませんが検出された部分が、溝ー2 に平行になっている点及び他の溝は溝ー2に平行に
走っている点の2点から溝と して扱いました。
 幅は不明です。2段になっており、1段目は深さ約0.1〜 0.15m(底面標高15.20m)2段目は約0.2m(同15.10m)です。
埋土は2層から成り下層は茶灰色砂【ナ】、【ナ】−1、上層は暗茶灰色粘質土 【ト】です。下層の砂は溝の開口時に流水に
伴う堆積土で、上層は埋め戻しの土 と考えています。
 上位は現耕作土が覆っています。つまり調査区東壁際辺りは 現耕作土直下が地山です。途中の時代の土、
基本土層B系統の土などのあったで しょうが、すばて現耕作土を整地する際に削平したと思っています。
そして現耕 作土が旧耕作土を削平したと同様に旧耕作土も地山を削平している可能性もありま す。それは
現耕作土かもしれませんが、いずれにしてもタイムトンネルではない のですから、地山の次の堆積は現耕作土というのは
自然状態ではありえません。 そして自然状態でも人為的にしても高いところが削られ、低いところに堆積するのが 基本です。
地山がある程度削られているとしたら、溝ー10はもうすこしは深く しっかりした溝だったかもしれませんが、
歴史の時間の中に消え去って判りませ ん。

  ○土拡ー1

 
土拡ー1は溝ー2の東岸北側にありました。
溝ー2と重複しているた め認知できずに溝ー2として掘ってしまい溝ー2の
上層断面(図ー13−2)に て確認できただけです。ゆえに形状などは不明ですが、
直径約1.4mの円形状 であったかと空想しています。


       二  黒色砂質粘土
       ヌ  灰黒色粘土
       ネ  溝−2のDをベースに地山粘土をブロック状含む
 
《 図ー23 土拡ー1土層断面図 》

 溝ー2のAの埋め 戻しには完全に埋まっています。用途は何だったのか判りませんが、
掘った土で 埋め戻しているかのようですので、掘削後短期間内に埋め戻されたと思います。
西側に土拡ー2・3・4と集中している点や土拡ー1を溝ー2と重複している為、見 逃した結果から
溝ー2内に他に遺構が存在した可能性もあります。もちろん土 拡ー1と土拡ー2・3・4の時間的、
性格的な違いはあるかもしれませんが。

  ○土拡ー2

 
土拡ー2は溝ー6の西側地山面で 検出され、調査区外に一部及びますが
約1.1m×0.8m以上の円形状かと思 われます。
検出面からの深さは約0.4m(底面標高14.40m)で底面近く で壁面が
外側にやや張り出し袋状になっています


    ノ   暗(茶)灰黄色半粘半砂土
    ハ‐1 暗茶灰色半粘半砂土
    ハ‐2 黒灰色   〃
    ヒ   地山粘土をベースに黒灰色半粘半砂土を含む     
 
《 図ー24 土拡ー2土層断面図 1/20 》

 埋土は 3層に分けられ、下層は地山粘土をベースに黒灰色半粘半砂土【ハ】−1、
【ハ】−2、上層は暗(茶)灰黄色半粘半砂土【ノ】で、中、上層にも地山粘土 を少量含んでいます。
地山粘土の混合状況および堆積状態から調査区外の土拡の 南側より埋め戻された様子が見れます。
 土拡ー2の上位には溝ー6での【サ】 層が覆っています。その【サ】層と土拡上位の違いは
基本的に地山粘土の含有量 の違いです。

  ○土拡ー3

 
土拡ー3は地山面で 検出され、幅約0.7m長さ2m以上の細長い溝状の土拡でしょう。溝かもわかりま せんが
南端が確認されていますので土拡として扱いました。深さは約0.40 m〜0.45m(底面標高14.50m)で
土拡ー2と同じく底面近くの壁面が 南側で袋状に外側に張り出しています。



       フ   地山粘土と暗茶灰色半粘半砂土の混合
       へ‐1 暗黄茶灰色半粘半砂土
       へ‐2 暗茶黒灰色  〃
       ホ   地山粘土をベースに暗(茶)灰色粘土を混入
 
《 図ー25 土拡ー3土層断面図 1/20 》

 埋土は 大きく3層で下層は地山粘土をベースに案(茶)灰色粘土を混入土【ホ】、
中層 の下は暗茶黒灰色半粘半砂土【ヘ】−2、中層の上位は暗黄茶灰色半粘半砂土【ヘ】 −1、
上層は地山粘土と暗茶灰色半粘半砂土の混合土【フ】です。中層の下が土 拡ー2の中層、
中層の上位が同じく上層に似ています。堆積状態からして土拡ー 3東側から埋め戻されたようです。


 
《 図ー26 土拡ー3甕出土状況図 1/10 》

 土 拡ー3の南端近くの底面に凸部が存在し、おsの凸部を境にして北側と南側は別の遺 構かのようです。
南側は約0.7mと約0.45mの楕円形を呈し、そこから6 世紀末以降のものと見られる長胴甕が横倒し状態で
出土しています。埋土はやや 汚れた地山土そのものに近い土でこの土器が出土しなければ地山と認識してしまう土 でした。
埋土が地山そのものと言って良い土からすると、この土器を埋めるため に掘り土器を横たえてすぐ埋め戻した
ものと思われますが、土器が底面にでなく 浮いた状態で埋められているのが疑問として残ります。
通常なにかを埋める為、 穴を掘りその何かを穴に入れるときそれは底に入れるでしょう。この場合、途中まで 埋めて
土器を埋めたことになります。となると元々は土器を埋めるための穴では なかったげれど、急遽土器を入れることに
なったのでしょうか?
深さが重要 なら慎重に掘り、掘りすぎる事は無いでしょう。それとも土器の下に食物や植物や遺 体等があったのでしょうか?
掘っていた時の実感(私自身が掘りました)ではそ ういうものがあったと言うような土の違いは感じませんでした
とにかく謎です。 ただ凸部の北側と南側で深さ(底面の高さ)はほぼ同じで、北側は東側から埋められ 南側の土器も
東側に寄っているという似通った点はあります。
凸部を境にし て北側と土器の出土した南側は遺構の性格や微妙な時間差の違いは存在するかもしれ ませんが、
かなり深い関係はあると思います
墓の可能性も考えられますが、 両側も土壌サンプルを取って分析していませんので何ともいえません。
 この長 胴甕は底部と口縁部がなく体部のみの出土です。その体部もかなり破損して状態は良 くないです。
土拡ー3の上位には基本土層のCが覆っています。土器出土状況図 【図−26】からすると検出時に地山を
掘りすぎたきらいはありますが、埋納さ れた土器が元々地山から一部出ていた可能性はあります。
そこに基本土層Cが堆 積、又人為的に運び込まれ耕作されれば(Cは耕作土のようです)、
土器は破壊 され損傷を受けるでしょう。
その後さらに土が堆積しその土圧も受けます。埋納 された土器が地山から一部出ていなくても、
それなりの損害を受けるでしょう。
私はこの土器は地山の高さから一部出ていてCが埋め立て耕作された時に、
その部分が破壊されたのではないかと想像しています。

  ○土拡ー4 

 土拡ー4も地 山面で検出され、土拡ー2同様に半分が調査区外で約1.7m×0.7m以上の円形 状かと推測しています。
北側に幅約0.2m長さ約0.5mの盲腸状の突出部を 伴っています。深さは検出面から約0.5m(底面標高14.40m)で
西側に 底面近くの壁は、土拡ー2同様に袋状を呈します。突出部の深さは約0.15mで す。
 埋土は3層から成り、下層が地山粘土と同粗砂をベースに黒灰色及び灰色 粘質土を混合【ム】
中層ー1が暗灰色粘質土【ミ】、中層ー2が暗茶黒灰色半粘 半砂土【ミ】−1、中層ー2が暗茶黒灰色半粘半砂土【ミ】−2、
上層は地山粘 土と同粗砂をベースに暗灰色砂と暗灰色粘質土を含む【マ】です。(図ー14)中 層ー2が土拡ー2の中層に、
中層ー1が同じく2層に、上層は土拡ー3の上層に 似ているかの土です。やはり埋め戻されたらしく、東側から埋められた
ようで す。尚、最上部の土(【マ】の上部)は土拡ー2を覆っている土【サ】との違いは不 明瞭です。
 この土拡ー4が埋まって後、溝ー7が存在しました。土拡ー4の上 位は基本土層のB系の土が覆っています。
土拡ー2、3、4は一地域に集まり形 状、埋土など似ている点があります。土拡ー2も形状は異なるとはいえ、
埋土は 似ています。
埋土は基本的に下層として地山粘土中心の土、中層に茶黒灰色系半 粘半砂土、上層は再び地山粘土中心の土
という傾向が見えます。形状ではいずれ も一部が袋状になっているのが一致しています。深さも似ています。
これら土拡 は同じような性格、用途で掘られ埋め戻されたようです。これらの土拡の用途はなん だったのでしょうか?
埋め戻す際の土は掘った地山の土があり、周囲にも地山の 土はありますが、中層としての茶黒灰色系の土は何故、
何処から持ってきたので しょうか?
 他の調査区にも同様な土拡群が検出されています。粘土採掘穴とい う説もあります。すこし他調査区も見てみましょう。
 今回の調査でのいずれの 調査区A,B,C,D,E区においても良く似た何土拡が検出されています。形状は円形、楕 円形、
長方形など多様で、0.8m〜2.5m位の規模で、1m前後の小型と2 m前後の大型の2タイプに分けられそうです。
かなり密集して存在し、接したり 一部重なったりはありますが、完全な重複はあまり見られません。深さはバラツキの ある
地域とほぼ一定の地域があります。壁面は垂直又は底面近くで外側に抉られ た袋状です。袋状は全周のものと
一方向のみのものとあります。埋土は地山土の ブロックを多量に含み、埋め戻しは次の土拡を掘る際に以前の土拡に
土を廃棄し ていくと推定されています。
遺物の出土は基本的に少ないですが一部出ていま す。Bー5区土拡ー1下層から6世紀末期〜7世期前半にかけての
ほぼ完形の土 師器小型甕が横転状態で、Bー6区土拡ー2中層から口縁部一部欠損のほぼ完形の須 恵器広口壺が、
Bー9区土拡ー2から7世紀前半の土師器甕が横転状態で、Dー8 区土拡ー2の底面から土師器小型甕(口縁部一部欠損)
が出土しています。
 これらの土器と他の出土遺物から、これらの土拡を掘ったのは6世紀末期から7世 紀前半を中心とした時期で、
一部7世紀後半から8世紀前半にまで及ぶと考えら れています。そしてAー5区の土拡にて土壌理化学分析及び
脂質分析を行い、遺 体埋葬の可能性はないという結果を引き出しています。
これら土拡群は特定土の 採掘目的に掘られたのではないかと推測されています。
 以上の状況はCー2区 の土拡ー2、3、4と基本的に同一ですので、Cー2区の土拡も特定土の採掘土拡と 考えます。
なおCー2区の土拡ー1もその可能性が高く採掘土拡と思っていま す。土拡ー1の掘られた場所が地山でなく溝ー2の
場所であった為、欲する特定 土が得られなかった故、溝ー2の土で埋まっており付近に他の土拡が存在しないので しょう。
袋状に掘る理由はより少ない労力で少しでも多くの欲する土を得るが為 でしょう。すなわち欲する特定土は土拡の底面から
やや上の袋状に掘られた土層 の土でしょう。
 Cー2区の場合、周囲や地山の上位に茶黒灰色系の土が堆積し ていないのに埋土にその土が含まれる理由は、
特定の土を持ち帰ったため埋め戻 すのに土が不足したために何処からか運んできたと思われます。
何処から持って きたかは確定できませんが、普通に考えると東側の小高かったであろう所から持って きたと思われます。
そして埋める必要もあったのでしょう。
 以上がCー2 区の全遺構ですが、溝と土拡で出土遺物もないに等しく、生活の臭いがしません。 Cー1区、Cー2区は
今回も高速道路が走りますが、歴史上生活の臭いの薄いとこ ろです。


6 総合して  

 前章でCー1区、Cー2区の基本土層と各遺構の説明を 致しました。
この最終章では今回の調査の他調査区(A・B・D・E区)や過去の調 査結果も
一部含めて総合的に観ていきたいと思います。

 ○ 
6−1 地形と河川跡
 現耕作土面はCー1区Cー2区で標高1 5.5おm(以下標高は略します)ですが、
東方のAー1区北部では16.50 mと1mも高く、Aー2区15.40mAー4区14.50m位と
南にいくにつれ て下がっていき、北高南低です。しかし今日では全域とも盛土され道路に
なって いますので、さほど高低差は感じられません。
 地山面も同様の傾向を示し北側 ほど高く、南へ行くにつれて下降していきます。

 【図ー26 各調査区遺構検出図】
もちろん地山面 は後世に削平を受けたりして当時の地形そのままの高さはありません。
Aー1区 北部で16.10m地山の段が存在し、Aー1区南部で15.60mそのまま下がり
Aー1区が14.90mAー3区は緩斜面で14.90〜14.50mAー3区南 端とAー4区北端の間に
段があるようでAー4区〜Aー6区は14.00mAー7- 1区で13.50mと一度下がり
以南は13.70mです。
東西方向では東 側が高く西側が低いです。
Aー2区14.90mの西方Eー1区で14.60〜1 4.30m、
Aー3区14.70m〜14.50mの西方Eー1区で14.00 m、
Aー4区〜Aー6区14.00mのEー2区で13.70mです。
Aー1区 の西方にあたるCー1・Cー2区は15.00mでCー2区東部で15.30mです。
Aー1・Bー1区が最高点でCー1・Cー2区はAー2区にほぼ対応しAー3区とEー 1区が対応します。
さらにAー4区〜Э区がBー4〜ビー10区、Dー6区とEー 2-1区と対応しAー7区がBー11区以南、
Dー7区以南、Eー2−2区に対応し ます。
つまり、北高南低、東高西低の地形の中で段が3段ほど想定できます。


 
《 図ー26 A区地山断面図 》

 広義に東側には千里丘 陵、狭義に北東側に千里丘陵内の待兼山丘陵が存在し、その裾部に位置するため
基本的に北東部が高くなるのがわかります。
 今回の調査地のその地山面におい て様々な方向の河川跡が検出されました。
狭い範囲にある飛び飛びの調査区にお いて、検出された様々な方向の河川跡ゆえにいずれの河川後も
単独のものではな く繋がりがあるものと思われます。つまり竜が舞うが如くくねり曲がり合流・分流す る河川跡
であろうと思います。いずれの地区の河川跡も砂礫・砂シルトなど、多 様な埋土で流水期と滞水期が明らかに認められます。
砂礫も見うけられるため
洪水など激しい流水も想定できます。今回のようなグリッドとトレンチ調査から では、いずれが本流でどれが支流かは
確定できませんが、地形に伴う方向、河川 幅や埋土などからAー2区〜Bー2・Dー2・3・4(?)を通ってEー1−2・3、
Eー2−1北部にかけての流れが本流ではないかと想像しています。Bー8、Dー 7、Eー2−2にかけての河川跡はシルト粘土が
やや目立ち標高も低くそれより 南側に河川跡が見つかっていないからです。
過去の調査結果(いずれの調査地も グリッド調査で全面調査ではありません)をみますと2次、14次、16次調査で
砂礫・砂・シルトを埋土とする河川跡が標高13.70m〜12.80mの地山 面で検出されています。


 
《 図ー27 蛍池西遺跡河川跡検出図及びその流水の想像図  》

これら2次、14次、16次の河川跡かあr弥生時代終末期か あr古墳時代中期の土器が出土しています。
今回の調査地の河川跡からも古くは 弥生時代後期後半期から終末期の土器を、さらに布留式土器、
新しくは須恵器を 含んで古墳時代中期土器が出土しています。それ故今回の調査地検出の河川跡の延長 部の
一部は2次・14次・16次調査検出の河川跡と考えて誤りはないと思いま す。但しいずれの流れが過去に検出された
河川跡に続くかは不明です。1次調査 でも調査区南西側で河川跡が見つかっていますが
どのようような流路か判りませ ん。今日本流と想像したAー2区〜Eー1-2区の流れが一次調査地の北端をかすめて
14次調査地でBー8区〜Eー2-2区の流れと合流し2次・16次調査地へと流れて行 くのかと一人想像しています。
この限られた狭い範囲で地形と関連して考えます と、河川跡はAー1区南部からAー2区北端にかけての丘陵の段
(丘陵のもっとも下 位に位置する急斜面の段)の下標高15.00m以下を巡って流れた可能性が考えられ ます。
そして標高14.50m以下に達すると解き放たれた如く、のたうって流れ たように見れます。
その源流は近く千里丘陵に求めても誤りはないと思います。


 
《 図ー28 蛍池西遺跡位置図 》

かつて千里丘陵には 谷間に多くの貯水池があったようです。それは水は湧くが常時それなりの湧水・流れ がないことを
意味するものではないでしょか。
これらの河川跡も激しい流水 期と滞水期があったことを示しています。
台風などの洪水時には谷間を駆け下っ てくる激しい流水が、雨季には流水が、
常時には湧水による滞水があったかも知 れません。
今日の府道大阪国際空港線も地形からみると谷間を走りその谷間は千 里丘陵を登っていくと思われます


 
《 図ー2 蛍池西遺跡調査区位置図 1/5000 》

千 里丘陵から幾条もの谷や小河川が放たれていますが、すでに埋没して判らないものと 思います。

 ○ 6−2 Cー1・Cー2区の河川跡(溝ー2)と第三次 調査の溝
 先に今回検出した河川跡は丘陵の段の裾部、標高 15.00mを巡って流れたのではないかと考えました。
Cー2区においても標高 15.30mから
地山が下降して15.00mになり、河川跡(溝ー2)が検出され ています(Cー1区東側は削平を受けた可能性が高いと思います)。
つまりAー1区 南部の丘陵の段はCー2区に対応し、Cー2区もその裾部に河川跡が検出されたと思い ます。
ただCー1区、Cー2区の河川跡(溝ー2)は直線的に流れ、分流合流が見ら れず趣が異なります。
埋土は砂礫、砂、シルト粘土など同じですが、出土遺物は ほとんど無く、弥生時代の遺物は出土せず時代がやや
新しいものが見つかりま す。埋土の中位で6世紀代、上位で7世紀代の土器です。それ故にCー1・2区の
河 川跡(溝ー2)は他調査区A・B・C・D区の河川跡とは別のものと考えたほうが良いの かも知れません。
どちらかと言いいますと、まずCー1・2区の北西方にあります 第三次調査地の溝と関連づけて
考えた方が良いかと思われます。
 それでは 第三次調査地の概要を見てみましょう。
 大きな溝が北西〜南東方向に3本(SD −01・02・03)平行して検出されました。
検出は標高15.80〜15.50 mの地山面です。SD-01の東側は15.80mと高く、西側は15.50mと0.3m低いです。

       1  盛土                7  地山崩壊土
       2  耕土                8  砂レキ
       3  床土                9  暗黄灰粘質土
       4  褐色砂質シルト         10  灰色粘土
       5  黒褐色粘質シルト        11  砂レキ
       6  暗茶色粘土



    1  (暗)黄褐色粘質土              7  黄灰色粘質 シルト          a  灰(黄)色粘質シルト
    2  暗褐色砂質シルト〜粘質土         8  暗灰色粘土               b  明黄色シルト
    3  (明)黄灰色粘土〜砂質シルト(肩側)   9  黒灰色粘土               c  明黄色粘質土
    4  明黄褐色砂質シルト             10 (暗)灰色砂 質シルト〜砂土     d  砂レキ
    5  明黄色粘土                  11 黒灰色砂 土〜砂土シルト      e  灰色シルト
    6  明黄褐色砂質シルト〜粘質土                                f  地山土
                                                         g  砂質土

    1  暗黄(褐)色砂質シルト    6  黒灰褐色及灰褐色の粘質土〜          1  暗黄色砂質土
    2  灰褐色粘質シルト           シルト〜砂質シルト                 2  暗黄灰褐色シルト
    3  地山土              7  地山土                         3  暗灰色粘質シルト
    4  灰色砂              8  黒灰色砂質シルト                  4  灰色砂
    5  暗灰褐色砂質シルト      9  砂レキ
                         10  黒灰色粘質〜砂質シル ト

     2  灰褐色・灰黄色 灰色の砂質シルトと粘質シルトの大きな互層
     3  灰色砂質粘土
     4  灰・黄色砂
     5  砂レキ
 
《 図ー27・30 》

SD-01 幅約4.8m深さ1m(標高14.40m)でほぼ一定です。上層(1)は(暗)黄褐色粘質 土、
中層(2)は暗褐色砂質シルト〜粘質土、下層(3〜11)は暗灰色系粘質 土〜粘土で流れを表す砂質土や砂は少なく
安定した感じです。中・下層は炭化物 が多く土器の大半が中層から下層に食い込む形で出土しています。
出土遺物の時 代は、下層が出土遺物数が少なく弥生時代中期中頃から中期後半にかけて、中層が弥 生時代後期、
上層は再び少なく古代土師器かと思われるものが多いです。
SD −02は幅2.0m〜2.5m、深さ約0.9m(14.70m)で底中央に幅約0.2m 深さ約0.15mの小溝が見られます。
上層(1)は暗黄(褐)色砂質シルト中 層(2〜5)は灰褐色系シルト下層(6〜7)は灰褐色シルト、最下層(8〜10)は
砂礫と黒灰色粘土で下層・最下層中心に土器は出土しますが少ないです。
下 層からは7世紀の土師器の椀状の鉢、最下層から須恵器片が出土しています。
  SD-03は幅2.0m〜2.5mで深さ約0.7m(14.75m)で上層から中層にかけて は灰黄色系のシルトで
下層は砂や砂礫です。中層からは7世紀前半の須恵器が、 SD-03上面から緑釉陶器が出土しています。
 以上のようにSD-01は弥生時代中 期から終末期、SD-02・03は7世紀代と時代はかなりかけ離れているのに、
不思議 に重なることなく平行にSD−02・03が人為的に掘削した溝としたら、SD-01の位置 を知っていたかのように走っています。
SD-01はCー2区の溝ー2同様に地山の下 降した地点にあります。
SD-01の東側に地山の下がりが認められ、その下がり以 東は標高15.80mで地山は平坦で地山直上は現床土、
現耕作土の為かなり削平 を受けているでしょう。
より高かった地山が東側より下がってきた地点にSD-01 が存在した事になります。Cー2区溝ー2と同じような地形条件です。
これと SD-01・02・03と溝ー2の方向性から見ると、Cー1・2区の溝ー2は第3次地の SD-01・02・03の延長部にあたる
ものとして同一溝と考えたくなるもので す。しかし出土遺物の年代がかなり異なり溝ー2は6世紀代、7世紀代です。
溝の 規模や埋土も異なります。溝ー2は基本的に砂礫・砂と粘土・シルト・粘質土系の互 層状態ですが、
SD-01は粘土・シルト中心の土層、SD-02・03も下部に砂礫が見 られないものの中部から上部はシルト・粘質土です。
 その矛盾を承知の上でか なり強引に検討対応させて行きます。まず第3次のSD-01の埋土a〜gは
Cー2区 溝ー2の【K】〜【M】に似ていなくはないです。
a,b,c,f(灰色黄色シルト粘質 土)≒【L】(暗黄茶灰色砂粘質土)≒ともに地山に似ています。
d,g(砂礫砂質 土)≒【M】【N】(粘土と砂との混合、砂礫)≒ともに流水の伴う土層です。
次 にSD-01のF〜Jは、溝ー2の【F】【H】に似ていなくはないです。
HIJ(黒 灰色・暗灰色粘土、砂土〜砂質シルト)≒【H】(黒灰色粘土)7(黄灰色粘質シル ト)≒【F】(黒灰色暗(黄)黒灰色粘土)です。
SD-01の@〜Eは対応がありま せん。BD(黄灰色・黄色粘土)が地山とも見うけられ、CEも黄色が入り地山が
混じっている可能性もあります。つまり埋め戻された可能性も考えられるからで す。
弥生時代後期の土器が中層(2)から下層(3)上面にかけて多く出土して いますが、埋め戻された後放棄されたものと思われます。
そうすると溝ー2の 【H】【F】が弥生時代中期から後期にかけての堆積かもしれないのです。
第3次 のSD-01にはCー2区溝ー2の【G】【I 】に対応する砂礫土層が認められませんのでSD-01は激しい流水に会っていません。
溝ー2の砂礫層【G】【I 】は別の河川からもたらされた事になります。第3次地とCー2区の間に別の河川が
合流していてその河川が運んできたという事になります。


  
《図ー31》

 
溝ー2の【F】の上位の土層【E】粗砂礫から6世紀代の須 恵器が出土しています。その為【F】全てをSDー01のFに対応させると
土層の時 間的空白ができますので【F】の下半部をFに対応、上半部をそれ以降の堆積として おきます(根拠はありません)。
【F】の上半部の堆積時(弥生時代後期から6世 紀代)にはSD=01は既に埋まっているでしょう。Cー2区溝ー2の【E】は
別の合流 河川の砂礫および第3次のSD-02・03の下部の砂礫(SD-02のH、SD-03のD)に対応 するとします。
つまり第3次地でSD-01が埋まりきった後、7世紀代にSD=02・03を 掘削してCー2区溝ー2の延長部に合流させたと考えます。
そうすると【E】は7世 紀代になってきます。その後のSD-02のDE(黒灰褐色シルト)≒溝ー2の【D】 (暗茶黒灰色砂質粘土)、
C(灰色砂)≒【C】(暗灰色砂)、@(暗黄褐色砂 質シルト)≒【A】【B】(暗黄茶灰色半粘半砂土)という具合です。
 これは 確かに無茶で強引な推測です。しかしこう考えるとCー2区の溝ー2も 【A】【B】【D】【E】区の河川跡とも
連なっているとしても弥生後期で時代 は一部合います。
【A】【B】【D】【E】区の河川跡が埋まるのは古墳時代中 期です。が、Cー2区の溝ー2はもっと遅くても河川の場合、
場所により埋まる時 期は異なる可能性はあると思います。
またCー2区に遺物が出土しないのは少しの 距離ですが、近くに人家がなかった為でしょう。
 一つ問題なのは今回第3次地 に用水路があり、それが偶然か見事にSD-01,02,03に合致していて
Cー1・2調 査区の北西端で南へ方向を変え溝ー2に会わずに逃げて行きます。


 
《 図ー27 》

単なる偶然かもしれませんが第3次地で合 致しているのが気にかかります。SD-01,02.03の埋没後には溝の痕跡はありません が、
もしかしたらSD-01,02,03はCー2区の方向に向かわずに逃げていっているか も知れません。
 以上のように強引なつじつま合わせを行うと、C=2区の溝ー2 の時代は【F】の下半部までが弥生時代後期以前、
【F】の上半部が弥生時代後期 から7世紀代ということになります。そして【E】の土層が7世紀代の流水に伴う土層 となります。
第3次地のSD-02,03 を人為的に掘ったとしても、溝ー2に人為的な手が加えられた痕跡は認められませ ん。
SD-01と溝ー2も直線的に結ばれても溝ー2に人為的痕跡は存在しませんの で、人為的な溝とは今のところ断言できません。
もちろん人為的な痕跡が見つか らないからといって、自然の河川とも言い切れません。第3次地のSD-01,02,03 は
Cー1、Cー2区の溝ー2に延びてきて、【A】【B】【D】【E】区の河川跡 に合流する可能性がないとは言い切れません。
合流後分岐して南下するか、その まま2次、14次、16次地の河川跡までのびて行くかは想像すらできません。

 ○ 6−3 Cー2区に戻って
 
先に Cー2区溝ー2の【F】は下半部が弥生時代後期以前、上半部は弥生後期から7世紀 代、
【E】が7世紀代という強引な導きをしました。
 その年代を基にCー2 区の状況を見て行きます。

 弥生時代以前は溝ー2が存在するだけで付近に は人家は存在せず、人々が何らかの作業を行った形跡もありません。
第3次地の SD-01や他調査区の河川跡に
多くの放棄されているのと異なります。
 6世 紀代に入って始めて人々が動きを見せます。何らかの目的を持ってか溝ー1を掘削し て須恵器の杯身と平瓶を
放棄また据え置いて短期間のうちに埋め戻すようです。 この時期を通じて7世紀代までは溝ー2は滞水状態で
草々が繁茂していた模様で す。
 7世紀代のある時、溝ー2でそれまでの【E】の砂礫を堆積させる激しい 流水が起こっています。
【E】からは6世紀代の須恵器の@(はそう)が出土し ていますが、流水に伴う土層からの出土ですし、【E】は先ほどの
検討で強引に ですが第3次地の7世紀代の土器を含むSD-02,03の下層に対応させています。
ま た溝ー6の最下層【セ】が【E】に対応しますので溝ー6が流水発生の幾らか前に掘 削されています。
この流水発生の前後に土拡ー2,3,4を特定土(粘土か?)の取 得目的に掘削しています。
それは土拡ー3より6世紀末以降の長胴甕が出土した ことから判明しました。土拡ー2,4も土拡ー3と同様な土拡のため
同時期でしょ う。他調査区(A,B,D,E区)の特定土採掘目的土拡群も6世紀末かあ7世紀前半期を中 心に掘られています。
検出位置もA-3〜5、B−4〜9、D-7〜9、E−2-2区が中心と なり河川跡近くで14.90m〜13.70mの標高地です。
ただ他調査区が無数に存在す る(特にA-3,4、B-6,7)のに比べてC−2区の土拡群は群と呼ぶには寂しい限りの数で す。
何らかの土の違いか作業の難易の違いがあるのでしょう。確かにC-2区の場 合、
何処かで溝ー2を渡る必要があると思います(その土を運び込む先が高所に あるとして)。
これだけの痕跡を残しながら今回の調査地には作業を行った人々 の生活の臭いは残されていません。
 【E】の流水鎮静後奈良時代末までは溝ー 2、溝ー6は滞水期で安定しています。一部は埋め戻しがなされているようです。
土拡−2,3,4と同目的と思われる土拡−1もこの頃に掘られたようです。他調査区でも 7世紀後半から8世紀前半まで残っています。
 奈良時代末前後に溝−3を掘削し たようです。奈良時代末から平安時代前期頃に再び激しい流水が起こり溝−2の 【C】、
溝−3,6の【キ】を堆積させ、溝−5の流路を作り出し【キ】、【キ】− 1、【キ】−2を堆積させています。溝−5の【キ】から
奈良時代末から平安時代 前期の土師器大皿が出土しています。
この時の溝−2の【C】は第3次地のSD-02の Cに対応させています。
 その後本格的に人の手が加えられ開発が始まります。 開発といっても溝の埋め立てです。平安前期以降のことでしょう。
途中謎の流 水、溝−2の【J】溝−4,5の【J】がありますが、溝−2の【A】溝−3,5,6の【オ】 で完全に埋め尽くしその勢いのまま
基本土層のDである程度の整地、地ならしを 行い凹凸をなくし平坦気味にしています。
埋めたて土から土師器の長胴甕や7世 紀中頃から後半の須恵器の杯蓋(?)が出ています。
埋め土は暗黄茶灰色・暗茶 黒灰色土で茶灰色・黒灰色土と黄色地山粘土の混ざったもののようです。
常識的 に考えて近くの高い所からつまり溝−1,2より東側の高い箇所を削って持ってきたと 思われます。
そこは7世紀代の人々が一時的にも生活した場所だったのでしょう か?7世紀代の土器を含んでいるということは、
もちろんその証明材料ではあり ません。空想です。
今日でも埋め立てをする際には、土の採集上のゴミが入りま す。高いところを削り低いところへ埋めます。同じことです。
これだけの作業痕 跡を残しながらも人々の生活の痕跡はありません。単なる工事現場だったのでしょ う。
なお時代は異なるかもしれませんが、B−8、D−2、E−2区の河川跡において も上部に地山を含む土層が確認されています。
埋められている可能性はあると思 います。
 以上、基本土層Dが埋められほぼ平坦にしたのは、耕作地を作り出す ためであったと推測しています。
なぜならこれだけの溝を埋め、ある程度整地し ながらも住居を建てるなり新たに溝を掘り直すなりの生活の痕跡を何ら残さずに
基本土層Cにおいては耕作土になっているからです。基本土層D以降の人々の土地に 対する作業をC−1区・C−2区の
南壁面基本土層図(図ー4、図ー10)の観察から 再びかなり強引に各土層面を追って想像して行きます。C−2区の基本土層図は
水 平距離を1/60にしていますのでかなり強調されてしまっていますが、またここで扱わ なかった壁面の土層図の観察も加味しています。
そして各々後世に削平を受けた りして、各土層面は当時のままではないのも承知の上です。
 C-1区の地山面は 今日ではほぼ平坦で東西で0.1mの差しかありませんが、C-2区では地山面は東から段 【A】(標高15.30m)
【B】(同15.05m)を形成しながら下降していきます。


  
《 図ー32−1 》
 その各段は溝ー2にほぼ平行しており、 今日の道路(阪神高速)もほぼ平行しているのは偶然でしょうが興味のあるところで す。
溝ー2の東岸が西岸より低くなっているのは東の高所から雨水等による流水 が地山を削り流した結果かと考えています。
遺構は全て地山面での検出でした。 C-1区・C-2区とも東部のグリッド部は削平を受けて地山本来の高さを示していないで しょう。
その根拠はすでに述べたと思います。
 基本土層Dは基本的にC-1 区トレンチ全域とC-2区の地山の段【B】のやや西側以西に堆積していますが、
溝ー2の西側の微妙に地山の小高い箇所と壁面36m以西は堆積していません。


  
《 図ー32−2 》
Dは溝ー2の【A】【B】と同様に埋めら れた土と考えています。Dも耕作土の可能性はなくもありませんが、Cの耕作土を
耕作する(積極的耕作土)際に下位に存在する為一緒に耕された消極的耕作土で あり、基本的に溝ー2,3,5,6を埋め立て
その後さらに整地する為に放り込まれた 土であろうかと思っています。
それはDと溝ー2の【A】とほとんど違いが不明 瞭という根拠からですが、それではCの耕作土の土は土のようにして
存在するの かと問われても私は答えられません。今日の畑や水田の耕作土も何故に畑や水田に存 在するのかも知りません。
耕し続けたら作物の不用部が腐って通常見かけるよう な
耕作土になるのか、それとも腐植土を何処からか運んでくるでしょうか。
 地山面及びD層上面に耕作痕跡であろう溝(幅数cm)が10数条ですが検出されてい ます。
 


  
《 図ー33 》

埋土は砂と砂質土の2種類です。この溝は 鋤跡かと思われ、他に鍬跡か足跡かのようなはっきりとしない痕跡もあります。
大半が溝ー2にほぼ直行する方向ですがやや北振り、南振りのものもあります。基本 的に北東〜南西方向です。
他調査区(A-7、B-1)でも良く似た溝が検出されてい ます。A-7区では幅約3〜5m、断面V字状の溝2条が1.5m間隔で平行にあり、
その 中央に牛と思われる足跡が見つかっています。(C-2区にも似たような状況の痕跡が あります)方向はほぼ北方向で全調査区を
通じての標準土層の第V層下層または 第W層からの痕跡の為、中世のものと推定されています。この溝の痕跡は比較的広範 囲に
及ぶので工作に伴うものであろうと考えられています。
1、B-1区の場 合は幅15m深さ3〜10mで方向は北にほぼ直交か北西方向に傾いています。
2、 C-2区においてこのような耕作痕跡が残されている。
3、C-1区においてはD下 位の地山面に不自然にな凹凸がある。
4、C-1区の南壁面基本土層図0.2m地点 に段【あ】がある。C-2区の中央でグリッド部北壁面にも段【い】が観れる。
5、C-2区南壁面基本土層略図27.2m地点に畦のように見ることもできる凸部があ る。
以上の5点からDを耕作された耕作土(積極的耕作土)の可能性もなくはな いと思いますが、Cにおける耕作時に耕作された
消極的耕作土と考えています。
 
 基本土層CはC-1区の溝ー11付近以西とC-2区の段【B】以西に堆積して いますが、D同様に溝ー3西側の一部微妙に
地山がやや高い箇所と壁面50m以西 には存在しませんDは耕作土と断定はしませんでしたが、Cは明らかに
耕作土と 思っています。C-1区では南壁面基本土層図のDm地点の段(段【か】段差6m)を耕 作土の一つの境界では
ないかと想定しました。C-2区では南壁面基本土層図の3. 5m地点(地山段【B】)のCの出現から同11.5m地点の
小さな段(段【き】) まで(Cの上面標高15.00m)、同11.5m地点から同21m地点の一時中断点【く】 まで(上面標高14.95m)、
同22m地点の再出現点【け】から同35.5m地点の 小さな段【こ】まで(上面標高15.00m)同35.5m地点から同49.5m地点の
C の消滅点【さ】まで(上面標高14.95m)とCの上面の標高により4分割できそうで す。
各平面距離は8m、9.5m、13.5m、14mと前2区間と後区間が似 た距離です。
各区間の高低差は5mで東から高・低・高・低区間となりますが、 2区間目は溝ー2の上位に当たる為低くなり基本的に
東側3区と西側1区かと思 います。この各区間が耕作土の区画を示しているのではないかと考えました。
ここにおいて掲載しなかった断面図からもCの上面標高を平面図に落とし、各同標高 点を結んだ


《 図ー32−3 》
は耕作土の区画も平面的に現しているの ではないかと思います。
これによりますと耕作土の境界は溝ー2に平行の北西〜 南東方向と直交の北東〜南西方向から成り、
その区画は北及び東が高く基本的に 南西側が低くなっています。つまり【ア】区画が上面標高15.25mで
最も高く次 いで【イ】区画が同15.20m、そして【ウ】区画は同15.05m、
【エ】ー1、 2、3、4の15.20m、【オ】ー1,2が最も低く14.75mです。
【オ】-1が 【エ】−1、2、3に囲まれながらも低いのは、下位の溝ー2の影響でしょう。
こ のように基本土層Cの時期は耕作土は棚田状になっていたかと考えています。
  溝ー7,8は上面をCで覆われています。Cの堆積前の遺構でしょうがその用途はわ かりません。
これも強引に想像しますと、つまりCに水が行き渡り過ぎないよう にする為かと、つまりCの下位の地山に
掘り返し部をつくるとそこに水が逃げて 行きやすくなる為かと、溝ー9はCの西端に位置する為、
耕作土に直接関係する 溝かと思っています。
 BA′BA″はC−1区の溝−2以西及びC-2区の東部グリッド以外の全域に堆積してい ます。


 図32−4
C−2区の南壁面基本土層略図17.5 m地点の段(段【た】段差10m)を反対側の北壁で確認しますと、ほぼ同位置【ち】 に
見出せます。これを結ぶ段の方向はほぼ南北を示しています。この段を【た】 としてC−2区南壁基本土層略図の0.3m地点
(BA"の東端)を【つ】とし 【つ】〜【た】の上面標高15.15m区間、【た】からBA"断続区間を通り同33.0m 地点(BA'一次切れる)
【て】の【た】〜【て】の上面標高15.05m区間、 【て】から同50.5m地点(BA"の小さな段)【と】の上面標高15.05m区間、
【と】以西の上面標高15.00m区間の4区間に分割できそうです。平面距離は 【つ】〜【た】が17.2m、【た】〜【て】が16.5m
【て】〜【と】が17.5m、 【と】以西は1.5m以上です。そしてC−1区のB−7東端【な】は【て】の延長線上に 当たります。
これらが耕作土BA'BA"の区画を表していると思います。区画は北 に東に高く西に低くなっています。つまり【カ】区画が上面標高
15.25m、 【キ】区画は同15.15m、【ク】−1,2が同15.05m、【ケ】が同15.00mです。
 BA'、BA"はCと耕作地の様相も耕作の方向も大きく異なるのが判ります。自然地 形に影響された耕作地から、南北方向を
意識したかのようなある程度整然とした 1区画の規模も大きな耕作地地へ転換しているようです。このような大規模な耕作土 の
転換は一般農民達の力だけによるものではなく、背景に政治力が存在している ように思えます。尚、この耕作地の想像が正しいか
否か、そして正しいのなら BA'、3A"の耕作土の区画は条里制に関係するのか否か等は周辺の遺跡発掘の全情報 が公表されて
いない現在、不明としか言わざるを得ません。
 BEはC−1区のトレンチ部とC−2区の段【A】のやや西側以西全域に堆積していま す。


(図ー32ー5)
C−1区では南壁基本土層断面 図の5.5m地点に段(段【は】段差5cm)を有し以東の上面は幅の大きな凹凸をな し、以西は平坦です。
C−2区では南壁面基本土層略図17.2m地点に段(段【ひ】 段差15cm)を持ちます。段【ひ】の南壁側はBA'・BA"の段【た】とほとんど
同 位置なのですが、北壁側は東に約1m動いています【ふ】。その段差も大きくなってま す。
段【】ひ
以東は一部凹凸部を持ちながらも、基本的に平坦でその上面標 高は15.25m(凹部は15.20m)、段【ひ】以西、南壁27m地点【へ】
までは平坦 で上面標高は15.10m、【へ】以西は上面が畝状の凹凸の連続でその標高は15.12m (凹部は15.07m)となります。
この南壁で見られた畝状の凹凸は北壁では確認 できません。そうすると調査区トレンチの南壁と北壁の間に一つの耕作土の境界が
存在した可能性があると思われます。そして段【は】【ひ】も境界でしょう。こ のように耕作土の区画を考えると、北東側が高く南西が
低くなります。つまり 【サ】区画は上面標高15.35mで南北方向に幅の大きな畝状の凹凸を持ちます。次は 平坦の【シ】区画で
同15.30m、【ス】区画は一部幅の大きな凹凸を持ち同15. 25m、【セ】−1は平坦で同15.10m、畝j状の凹凸が連続する【セ】−2は
同15. 12mです。BA'、BA"からBBへ大きな転換はありませんが段【た】〜【ち】と段 【ひ】〜【ふ】を比較すると、区画の境界の軸が
BBの時期のほうが東に振って いるようです。
 基本土層のBAはC−1区のトレンチ部とC−2区の段【A】以西に 見られますが、現耕作土の床土を整地する際に削平されたようで
良好な状態で観 察できませんでした。C−1区ではBBの段【は】の高さで平坦です。C−2区において もBBの段【ひ】以東はその高さ
で平坦です。また段【ひ】以西は畝状の凹凸の 凸部の高さで平坦が凹部に見られる程度です。C−2区中央部グリッドにおいて北側で
BA上面の標高が15.15mと読める箇所があるのでC−2区段【ひ】以西は今日読め るBBの上面より3cmは高くBAの上面が
あった可能性はあると思います。大きく3区画【タ】【チ】【ツ】です。


  図−32−7

 基本土層の@(今日の耕作土)はBA(一部BBも)を削平整地してAを床土と して存在しています。BA'・CA"の段【た】〜【ち】に
始まった段は少し東へ移 動したとはいえ、南壁面基本土層略図では15.5m地点で見られます。その段の方向 は、BBの段【ひ】〜【ふ】の
方向に近いものです。北東側が高いという地形の 影響を受けたであろう耕作土の段は、大きく変更されることなく以前の状況を基本的 に
踏襲していますが、耕作地の棚田状の様相は単純化され区画の上面標高の違いは2種 類【ナ】【ニ】に整理されています。


但し、すでに 述べましたことですが、C−2区の段以西の耕作地【ニ】の畝の方向が下位のBBのほ ぼ同位置の区画【セ−2】の耕作地
の畝状の凹凸と同方向というのは興味あるこ とです。しかもトレンチの南壁には畝が見られ、北壁には見られないと言うのも同じ というのは
面白いことです。
 以上のように溝が埋没以後耕作土が連綿と続いていますが、 他今回の調査区も基本的に地山面の遺構が埋まって以後は耕作土の
堆積に次ぐ堆 積です。その耕作土は地山の地形に従って北側が高く南へ行くにつれて低くなってい ます。
 既に触れたように、現耕作地の段【ま】〜【み】の源形はBA'、BA"の 耕作地の段【た】〜【ち】にあります。Cの耕作地からBA'、BA"の
耕作地に改 変した際、この段【た】〜【ち】が20世紀の未来まで影響を与え続けると当時の誰が 考えたでしょうか。
逆に私もその昔からの影響を受けているとは思っても見ませ んでした。残念ながらこの耕作地の改変はいつ行われたのか判りません。
耕作地 は生産地ゆえに遺物の出土が少ないので、時代の判定が難しいのです。ただ下位の 溝ー5の埋め立て前の流水期の砂【キ】から
奈良時代末から平安時代前期の土器 が出土してます。流水に伴う砂出土の遺物なので、その遺物がその砂の時代をさして いるのか
判りませんが、その遺物が出土砂の時代を示しているとして考えます。 そうするとその後溝の埋め戻し工事【A】【B】層、整地(又は耕作)
D層そして C層の耕作後にBA'、BA"ですから平安時代前期から中期以降かと思っています。ち なみにC−2区の東方のA−1区にて
平安時代中期の溝や柱穴が検出されています。 A−1区に居を構えた人々がBA'・BA"の耕作地の改変を行ったと申しませんが、
他調査区を含めて一帯に広がる耕作地のいずれかに間接的にでの関係するのではない かと思います。
 BA',BA"は平安時代かと推測しました。新しく見て中世とし ましても何百年という時間を越えて、何世代かの人々を通して整地・改良
されな がら耕作地は受け継がれてきたのでしょう。ものすごいことだと思いませんか?
私の家の系譜は二世代前以前は不明ですが、ここC−1区、C−2区の耕作土の系譜は堆 積土に残されています。
今日と違って当時は農業土木機械はないので、鋤や鍬、 もっこを使用して額に汗、目に涙、手に肉刺(まめ)した事でしょう。
日々天候 を気にしながらも、時に大雨に、早に、時には台風に霜にと泣かされてきたでしょ う。そして自然災害による耕作地の破壊により
お上の命令により又、家族を養う ためや娘を嫁がせるため、収穫量の増加を担って耕作地を整理改良もしたでしょう。 各時代の各人々の
日々の”一生懸命”が作り上げた土層だと思います。一生懸命 が実り家族に笑みがこぼれ、再び一生懸命が始まりそして笑みが浮かび、
その繰 り返しが土層に凝縮されていると思います。この土層には耕作土の歴史つまり人々の 歴史、人々の繋がり、文化、喜怒哀楽が
濃縮されており、全て今の我々に繋がっ ており、影響しておりそれゆえに我々が存在するのではないでしょうか?
現耕作 土の作物で命の灯りと点した人もいるはずです。遺跡発掘もそのようなものを何のた めらもなく、一瞬に否定、停止、破壊、消滅
させてしまうものです。通年、耕作 地は遺跡扱いされませんので、至る所で人々の苦労は知られずに葬り去られている、 つまり我々自身
の系譜や歴史、文化を消去していっていることを知っておくべき だと思います。
 破壊、消去、断絶するにもそういうことを認識して行う方が 我々の子孫や孫やそして”猿の惑星の住民”に向けて
少しでもよりよい影響をも たらすのではないかと思っている今日この頃です。

 長々とした駄作に最後 まで御清聴下された方には感謝いたします。

                                                   竹谷  俊彦




   ※ 参考文献

  1、「大阪府豊中市蛍池西遺 跡 ー阪神高速道路大阪池田線池田延伸工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書ー」
                                                 蛍池西遺跡調査団  1998、3

  2、「蛍池西 遺跡」 豊中市教育委員会 1988、3

  3、私の記憶

  尚、図 面の一部は上記参考文献から無断で転載いたしました。深くお詫びいたします。

 最後に私と共に汗を流してくれました今村氏、鬼崎氏、杉本(兄)氏、安西工業門真営業所の方々に感謝しますと共に
 亡 くなられた方々のご冥福をお祈りしこれを捧げます。
























SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ 掲示板 ブログ