長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料
                                                  2003.2.22
                    ほうぼだいいんはいじ ゆや
              宝菩提院廃寺の湯屋遺構   財団法人向日市埋蔵文化財センター

1.ナゾの古代寺院にせまる!

宝菩提院廃寺は、西暦680年頃に建てられた白鳳時代の寺院跡で、平安時代には願徳寺と呼ばれていたこ
とがわかっています。鎌倉時代になると東山三条にあった宝菩提院が当時衰退しつつあった願徳寺へ移され、
天合密教を修学する場所として発展していきました。
その本尊は国宝「如意輪観世音菩薩半跏像」で1962年に廃寺になるまでの約13OO年間、当地で盛衰をた
どった寺院です。今回みつかった遺構は、平安時代の願徳寺につくられた湯屋跡とみられます。その存在を確認したことで、この場所が僧侶の日常生活の場となった大衆院の一画にあたることか明らかになりました。これまで本廃寺の建物配置は何ひとつわかっていなかったのですが、ようやくにして、伽藍復原の手がかりが得られました。調査は長岡京右京域の調査として向□市寺戸町西垣内地内において昨年11月26日より始め、2月28日までの予定で現在継続中です。
調査面積は約350uです。


2.湯屋とは何か

 湯屋とは沸かし湯を浴びて垢を洗い落とすところで、風呂は本来汗を流す蒸し風呂のことをいったようです。浴槽に湯を満たして入浴するようになったのは一般には江戸時代からのことで、古代の入浴方法についてはよくわかっていません。
寺院では仏教儀式にのっとつて月に2回湯をわかし、僧侶だけでなく民衆にも施浴がありました。中世の絵巻物に描かれた湯屋には、湯を沸かす釜湯、湯を浴びる浴室、法要が行われ脱衣所にもなつた前室の3室があつたようです。


3.発掘された湯屋遺構

 湯屋の遺構は、@石敷をそなえた大形の竈(かまど)、A石敷水場施設、B石敷踏場をもつ溝、C排水をかねた灰・炭の捨て場、D覆屋(おおいや)からなります。

                       南西側より

@大形竈 竈は直径1.7mの大きさで半円形状をなし、厚さ15〜20cmの明橙色粘土でつくられた壁が立ち上がります。内部は炭と焼土で埋まっています。床面は深さ15cm程度と浅く、断面すり鉢状のくぼみとなっています。その表面は、加熱を受けて赤く焼けています。また、床の四隅には石を置いて鉄釜をのせる台が備えられていま
す。置石は加熱を受けて劣化し、くだけて破片が散乱しています。なお竈の内法は1.5mlこ復原でき、置石の配置などから口径1m以上ある鉄釜がすえられていたものと想定されます。焚き口は西側にひらき、壁の両端を約2Ocmほど内側に屈曲させています。その手前にはかき出された炭や灰の残りが2m四方の範囲lこ拡がっています。また、竈の周囲には東西2.3m、南北2.8〜3.0mの範囲に設けられた方形の石敷が備わり、その西端は焚□と揃えています。

                              東側より

A石敷水場施設 竈の北側には方形の石敷がさらに広がります。竈に伴う石敷と接するところでは相互にかみ合わせるように目地が通され、石を敷く手順が異なると同時に、機能的に異なる空間として使われたことがうかがわれます。この中央付近には幅約15〜2Ocmの排水溝が設けられています。その南側の石敷は東西約4.Om、南北1.Omの長方形を呈します。北側の石敷は東西両端については約4.3m幅であることが確認されましたが、室町時代に削られていたため遺存状況が悪く、北側への延びについては明らかにできませんでした。少なくとも南側の石敷と同等以上の規模があったものと想定されます。また、石敷の勾配は東と北側を低く傾けられています。使用される石は厚みのある扇平な河原石が多く、ごく一部に平瓦と凝灰岩が使われています。石の大きさは竈に伴うものほど小さく、並びも雑な傾向かあります。石の目地には粘土がつめられていました。このような石敷施設上
では、水か多く用いられたことは疑いなく、離水のために撥水加工が施されたものと想定されます。なお、排水溝は南北の溝とT字状に取りつき、内部には礎石のような扁平な石が置かれており、周辺の柱列と目通りずる状況から、そこに柱が建てられた可能性が想定されます。

 B石敷踏場をもつ溝 幅約O.8〜1.0m、深さO.15〜O.20mの南北溝の西側に不定形の張り出し部
か設けられ、その底部に角ばった大ぶりの扁平な石が並ぺられています。抜き取られたため一部しか残っていません。井戸に近く汲みあげた水を使う場として利用されていたものと想定されます。

                                    南側より
 C排水をかねた灰・炭の捨て場 竈と石敷施設の東側は、幅約O.3〜0.5mの平坦面をはさんで、南北の溝状のくぼみが広かります。幅3.5m以上、深さ0.2〜0.4mの規模を有します。この内部には炭・灰の他大量の土器・瓦の細片がすてられていました。石敷に伴う排水口が取りつくことから、排水機能をかね備え、竈から排出する灰や炭のすて場となっていたものと判断されます。

                            東側より

 D覆屋 規模は東西4間(2.1〜2.7m)×南北2間(2.7m)の身舎(もや)で、庇(ひさし)などの柱列か調査区
外にのびていた可能性もあります。柱の穴は11基で構成され、1辺O.8mの方形を呈しています。石敷部分では柱穴が石の下にもぐり込み、石が柱の根もとをとりまくように配されています。こうした柱の痕跡から、使われた柱は約25〜3Ocmに復原されます。


4.湯屋遺構出土の遺物

湯屋遺構に伴う遺物は、@竈内部から炭とともに出土した、土師器杯・皿類と瓦、A炭などの捨て場からの大量の土器・瓦類があります。これらには共通して10世紀前半の特徴をもつ土師器杯・皿類が含まれていますから、湯屋の廃絶時期を示すものと評価されます。一方、つくられた時期については現在調査中のため明言できませんが、湯屋遺構の東半部は厚さ約O.6mの整地土で盛られた上につくられており、整地土の中に含まれる遺物には今のところ10世紀まで下る遺物は確認できていません。したがって、湯屋の成立は9世紀に遡る可能性があります。いずれにせよ、湯屋は平安時代前期、西暦9OO年前後のものと判断されます。
   
     緑釉陶器                    難波の宮から運ばれた瓦

  
       二彩陶器                             創建期に軒先を飾った瓦

  
  中世宝菩提院の軒先瓦




                         湯屋遺構配置図

5.なぜ湯屋といえるか?

「湯屋」と判断するまでに、@遺構のもつ個別的な特徴の整理、A文献資料からの検討、B絵画資料との対比、 C現存する寺院の湯屋との比較検討、D発掘調査事例との比較、を行いました。

@遺構の特徴
今回の遺構は、石敷を備えた大形の竈が1基と排水溝を伴う石敷水場施設や石敷踏場をもつ溝など水を多用する施設が付随して、これらが東西棟掘立柱建物の内部につくられていることが最大の特徴です。また、隣接して井戸が設けられるなど水の需要が強く求められたことをうかがわせます。
A文献資料からの検討
奈良時代に作成された寺院の財産目録というぺぎ『資財帳』には、大衆院の内部施設の内容とそこに備わる物品が記されています。大衆院で火を使用する施設は「竈屋」と「湯屋」に限られてくることがわかります。また所有する物品の中に釜についての記載がありますが、湯屋の釜は大形のものがひとつで、竈屋などには中小の釜が多く用いられていたことがわかります。したかって、資財帳を見る限り、本遺構の在り方は湯屋の要件を有しているといえます。


 資財帳にみえる大衆院一覧

 寺院名     区分    施設名                           典拠          
 法隆寺    大衆院屋 厨 竈屋 政屋 碓屋 稲屋 木屋 客房          法隆寺資材帳
 額安寺    大衆院   務屋 倉 糒屋 竈屋                    額田寺伽藍並条里図
 薬師寺    大衆院   二坊大衆院                        薬師寺流記
 大安寺    大衆院屋 厨 竈屋 維那房 井屋 碓屋 板倉            大安寺資材帳
 東大寺    大衆院   南中門 屋 酢殿 西醤殿 大炊屋            東大寺要録
 興福寺    大衆院   盛殿 厨殿 醤殿 米殿 器殿 大炊屋          興福寺流記
 朝護孫子寺 大衆    屋                              朝護孫子寺資材帳
 観心寺    大衆院   食堂 神殿 厨舎 炊屋 臼屋 稲屋 馬屋 牛屋 湯屋  観心寺資材帳
 多度神宮寺 大衆院   屋 竈屋 韓屋 厨 板倉 湯殿               多度神宮寺資材帳
 近長谷寺   大衆屋   大衆屋                            近長谷寺資材帳
 観世音寺   大衆物   厨 竈屋 水屋 糒屋 碓屋 板倉 造瓦屋         観世音寺資材帳
 弥勒寺    大衆院分 屋 政所屋 甲倉 板倉 丸倉 板倉屋           造営注文案
 上野国分寺 大衆院   仮屋                             上野国交替実録帳
 法林寺    大衆院   酒屋 西屋 北屋 大炊屋 政所屋 大門         上野国交替実録帳
 弘輪寺    大衆院   碓屋                             上野国交替実録帳
 慈広寺    大衆院   地子倉 大炊屋 資材倉                  上野国交替実録帳


資材帳にみえる湯屋一覧

 寺院      釜名   数量   規模                            典拠        
 法隆寺     銅釜   1口   口径4尺5寸(1m35cm) 深3尺9寸(1m17cm)    法隆寺資材帳
 法隆寺     鉄火爐  1口   口径2尺(60cm) 深2寸7分(8.1cm)          法隆寺資材帳
 興福寺     大鼎         70石(50401)                       七大寺巡礼私記
 東大寺     差鍋   1口                                 七大寺巡礼私記
 東大寺     足鼎   2口   15石(10801)                      七大寺巡礼私記
 大安寺     鉄釜   1口                                  大安寺資材帳
 大安寺     火爐   1口                                 大安寺資材帳
 広隆寺     湯釜   1口   2斛(144リットル)                      広隆寺資材帳
 広隆寺     湯船   1口                                  広隆寺資材帳
 観心寺     湯釜   1口   9斗(64.8リットル)                     観心寺資材帳
 多度神宮寺  鉄釜   2口   どちらも2斗(14.4リットル)                 多度神宮寺資材帳
 多度神宮寺  湯鉄         30斤(288kg)                       多度神宮寺資材帳
 観世音寺   鉄釜   1口   口径2尺2寸(66cm) 深2尺(60cm)          筑前国観世音寺資材帳
 安祥寺     釜     1口   2石5斗(180リットル)                   安祥寺資材帳


B絵画賢料からの検討
湯屋は中世の絵巻物の中にみることができまず。
1)一遍聖人絵伝1299(正安元)年作

2)是害房絵巻(ぜがいぼうえまき)1308(延慶元)年作


3)慕帰絵詞(ぼきえことば)14世紀作


1)では大形の竈が建物内部に1基設けられ、小僧が焚口で薪を入れ、僧侶が隣接する井戸で水をくみ上げている様子が描かれています。釜からは樋管がのびており、別室に沸いた湯をたくわえる別の釜があったものと判断されます。

2)釜2基が描かれ、1)と同じ使われ方があったことがわかります。

3)では建物の外側に設けられた2連式の竈があり、ひとつは蒸気を浴室に送り、他方では湯を沸かしている様子が描かれています。ここでは蒸気風呂が確認できます。
以上のことから、中世の湯屋には大形竈が1墓あって、そこには沸かし湯の釜がのり、(a)それをたくわえて浴びせ湯に使う釜が別に用意されていたものと、(b)これに加えて蒸し風呂が併設されて2つの竈が備わるもの、とがあることがわかります。

C現存する湯屋の遺構との比較
現存する最古の湯屋は「東大寺大湯屋」で、もとは1239(延応元)年に建てられたものですが、1408(応永15)年に大改造を受けています。その構造は釜場、浴場、前室からなり、沸かし湯をたくわえた釜から浴びる入浴方式が採られていたものと判断されます。


                              大湯屋平面図
               『國寶建造物東大寺大湯屋法華堂北門修理工事報告書』より

D発掘調査事例との比較
現任までに湯屋の発掘調査は山□県防府市阿弥陀寺の例が知られているにすぎません。本例は現存する湯屋を解体調査し、近世・中世に遡って過去の湯屋遺構がみつかっています。近世〜現在までの湯屋には釜場、浴場、脱衣室などの前室が設けられていたことがわかります。とくに近世では釜が2基隣り合わせで設けられており、「是害房絵巻」の在り方を彷彿とさせます。また浴場直下には浴びた湯もしくは蒸気の水滴などを流すために石組みの排水溝が設けられていることは、今回の遺構を考える上で示唆的です。なお、中世段階のものとして直径3cmの大竈が1基確認されています。

以上のように@〜Dを参考にして今回の遺構を見た場合、次の点から湯屋と判断されます。
1)覆屋の内部に大形の竈が1基存在すること。
2)井戸や石敷水場施設が備わるなど水を多用する施設が存在すること。
3)本遺構の竈にのる鉄釜は湯屋のサイズに合致すること。
4)一遍聖人絵伝などからうかがわれる竈の位置、形状、井戸との関係などといった湯屋の在り方に共通性がみとめられること。


                現存湯屋建物SB101 礎石配置と調査区設定図
               『平成12年度 防府市内遺跡発掘調査概要』より転載


6.湯屋遺構発見の意義
はじめて古代の湯屋遺構を発見したことにより、これまで不明とされてきた中世以前の湯屋の構造と配置、入浴の在り方などが明らかになりました。今後本遺構を基準にして古代湯屋を具体的にイメージすることができるようになるでしよう。また、考古学のみならず仏教史、風俗史、文化史、建築史など、さまざまな方面の調査研究に大きく貢献すると思われます。

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