池田遺跡


  概要

 今回の遺跡は前回の向山1号墳に続き古墳になりました。現場は大和高田市の、近鉄大和高田駅から西へ徒歩約15分ほどのさくら高田温泉さくら荘という公共福祉ゾーンの横にあり、見学者の中には後で立ち寄りたいという方もおられました。午前と午後の二回説明会が開かれ午前の部だけでも、1000人を超える人々が集まりました。遺跡の北側には、大前方後円墳の築山古墳、コンピラ山古墳、茶臼山古墳、狐井塚古墳など馬見丘陵古墳群の一端を垣間見ることができます。おもに北側の尾根の丘陵線上など比較的高い所に多く築造されていると思われてきましたが、池田遺跡のこれまでの調査で、5世紀代を中心に丘陵の低い所にも次々と古墳が築造されていたことがわかってきました。以前の調査では後期旧石器時代の国府型ナイフ形石器、縄文前期、晩期の土器、弥生時代中期の土器や短剣の半製品など多くの遺物が出土し、非常に幅の広い時代にまたがる複合遺跡であることがわかってきました。



今回の現地説明会の報告資料ならびに説明から抜粋
  取材日 平成11年5月29日


1号墳



 墳丘部分は17m×17mで北側には「凸」字形に造出しを設けています。墳丘は地山を削り出して基底部を造り、盛土をし築造されていましたが、平安時代に開墾のために削平をうけ、埋葬施設は完全になくなっていましたが、墳丘本体の一部と造出しには、盛土が少し残っています。

墳丘本体が完成した後に追加するかたちで造出し部を盛土されたことが判明しています。古墳の周濠からは、古墳に並び立てられていた多くの埴輪が、割れた状態で出土し、特に造出しの周辺には、人物、馬などの形象埴輪が集中して出土しており、造出し部が祭祀にかかわる特殊な場所であったことをうかがわせます。

特筆すべきことでは、立ち飾りの冠をかぶった人物埴輪が出土したことです。頭には両側頭部には珍しい三角形の立ち飾りを付けた冠をかぶり、大きなみずらを結い、背中には靫を背負っています。また欠損していますが、左肩には弓を携えていたと考えられます。

 

これらの装いから、古墳での祭祀に関わる盛装した武人を表現したものと考えられます。甲冑を身に付けた武人が靫を背負った例は関東では若干ありますが、盛装して靫まで背負う例はなく、当時の祭祀、風俗を知る上で貴重な資料といえます。余談ですが靫負(ゆげい)という言葉があり、辞書では宮中の門を守る武人という意味だそうです。古墳が築造された後周濠の水を池状遺構に排出したと思われる溝が周濠北西部に見つかっています。埴輪や須恵器の特徴から5世紀後半ごろと考えられます。



2号墳


 規模は約12m×12mあると考えられ、濠の幅は1号墳と比べて狭く、概して古墳というよりも、方形周溝墓の感じがします。埴輪の出土はなく、濠の中から須恵器が出土しました。5世紀後半と考えられます。



方形周溝墓


 平面規模は約12m×12mあり、盛土の部分は削平をうけています。西側の溝は中央部で切れ、溝の南西コーナー付近に、周溝内木棺墓が検出されました。木棺墓からの副葬品はなく、棺痕跡も確認できませんでした。東側の溝の埋土から小型倣製鏡が出土しました。外縁に沿うかたちで、放射状の直線模様を配した、櫛歯文鏡と呼ばれる国産の鏡です。鋳あがりは良く、赤色顔料の付着が認められ、主体部に副葬されていた可能性があります。4世紀後半ごろの築造と考えられます。



木棺直葬墓


 1号墳の西側で二基検出されました。直角に配置されていることから、方形周溝墓の周溝墓内埋葬墓の存在もあり、おそらくこれも方形周溝墓が存在していた可能性が考えられます。墓壙の形から、これらも木棺におさめられたものと思われますが痕跡は確認できませんでした。西側の二号墓からは、ガラス玉数点が出土しています。


 池田遺跡での五回の調査で、馬見丘陵の古墳の分布状況は次第と明確になってきました。出土した埴輪を含めた馬見周辺の古墳群の特性が判明してきた意義は大きいといえるでしょう。
 
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