今城塚古墳                     


 現場は、JR摂津富田駅から北へ1.5kmの所にあります。今城塚古墳に巡らされている二重の濠は、田畑と して利用されている部分が多くをしめ、所々に認められるだけです。この近くには、国史跡になった埴輪を生産していた新池埴輪製 作遺跡があり、太田茶臼山古墳、二子山古墳、番山古墳、前塚古墳、岡本山古墳、郡家車塚古墳、狐塚古墳郡など多くの古墳が散在 しています。なかでも、とりわけ大きな今城塚古墳は、古墳の形状や埴輪から、6世紀前半に築造され、「日本書紀」、「延喜式」 などの資料から、今では西暦531年に亡くなった継体天皇の陵墓であると考えられています。また、前回、今回の調査で、なかなか 公開されない古墳の形態や規模、そして後に城砦として利用され、どのように築造変形されたか、また誰が主体者としてこの大工事 をおこなったかを知る手がかりをつかむことができたという興味ある二つの事が絡み、1月9日の2時より寒風の吹くなか、大勢の熱 心な人々が詰めかけました。



古墳概略


 今城塚古墳は、 淀川北岸で最大級の前方後円墳で高槻市域を南北に貫流する芥川西岸の富田台地中央部に位置しています。「今城」の名称は戦国時 代に城砦として利用されたことに由来します.

 現在の古墳の規模は1996年に測量調査によると、全長350m、全幅342m、 墳丘長186m、後円部は直径100m、高さ11m,前方部は幅141.5m、高さ12mと想定されます。



現地説明会報告

  第一次調査地点は古墳中軸想定線から45度北側に振った位置( 後円部北東側内濠)、今回は同様に90度の位置(後円部北側)に設定しています。前回、今回の調査で わかったことを取り混ぜて説明します。

 まず古墳では,前回・今回と、後円部裾のたちあがりが 確認され、後円部の直径はおよそ90~92mと推定できるようになりました。今回検出された内濠の幅 18,5m、深さは現地表面から約3m,底はおおむね平坦、前回の幅20mを下回っており、内堤斜面の角 度も違っています。前回の地点が後円部側に位置するのに対し、今回は後円部側から前方部側に移行 する部分にあたるからだと考えられます。しかし後円部側斜面の立ちあがり角度は25度と同じ値を示 しており、墳丘斜面としては同じ面で構成されていると考えられます。

また今回、葺石(チャート、珪石)は、後円部側および内堤側斜面で検出され 人頭大からやや大きめの石を斜面に据えています。内堤側では幅1,5mの範囲で良好に検出されました が、後円部側は大半が崩落している状況でした。堆積土の高さと葺石の位置からして内濠の水の対策 で並べられたのかもしれません。内濠は、層序は上から表土・耕作土 (現代の耕土層)、埋積土(人工的な埋め土)、堆積土(内濠にたまったヘドロ層)に大別できます。 堆積土は上中下に分かれ内濠が相当長期間水をたたえられていたことを示しています。下層では 、倒木、円筒埴輪片などに混ざって底付近では、杭を打 つために使用する掛矢(かけや)とみられる道具などの木製品も見つかっています。

この掛矢は現在のようなT字状ではなく、I状で先のほうが叩きつぶれています。中層土からは、 円筒埴輪片、どんぐりなどの植物遺体や倒木など有機物が 多く含まれていました。上層土では中層土より有機物は少なく、ヒシの種子などが見つかり水が浅かっ たと思われます。また石棺の破片と思われるピンク色の 阿蘇溶結凝灰岩などが見つかっています。北端内堤斜面中腹付近では、円筒埴輪片がまとまって出土しています。ここに埴輪を並べていたものと思 われます。年月が過ぎて、じょじょに何らかの原因で内堤に流れ込んでいったものと思われます。

内濠底の後円部寄りでは、前回と同様のを検出しています。溝は幅0,4m、深さ0,2mの断面逆台形の溝で、後円部の裾に沿って掘られ、後円部斜面の土とみられる灰色粘土質土で埋まっていました。形状や規模、埋土の状況から、古墳築造時に掘削され、作業中の排水溝として機能していたと考えられ、墳丘北側の内濠底を巡っている可能性が高くなりました。


「今城」の名は、戦国時代に城砦として利用されたところから由来し、前回調査でも確認され,「今城山城(いまきやまじょう)」と命名されました。古墳を城砦として利用された例は珍しくなく、有名な例では、大阪の茶臼山なども知られている。中世から近世初頭にかけては、地形を利用しながら一部地形の削平や埋めたてなどでの築城が一般的で、近世初頭以降に見られる平坦地で石垣を積んでなる城とはまったく違った構造を持つ。近代に近づくにつれ、武器などの発達(おもに銃)により戦いの方法もめまぐるしく変わり、用兵・築城の技術も発達しました。今城山城はちょうどその変革期にあたり、前回、今回の調査でそれが確認されました。今回、内濠は墳丘を切り出した巨大なブロック土(一辺2mから大きいものは5mを超える)を内堤側(外側)から先に落とし込み、順次後円部方向(内側)へ規則的に埋めています。

墳丘部北半部を見れば,異常な急斜面や凸凹部がありそこから切り出され動かされたものと思われます。そしてブロックとブロックの隙間はブロックと同様の土で充填していく状況が観察できました。中央部付近では落とし込んだ時の衝撃や圧力によって、たまっていた泥土層が押し上げられ、隙間に入り込んだ状況も見られます。巨大ブロックは0,4m〜0,1mの小土塊で構成され、それをうろこ状に積み上げ叩き締めて構成されています。埋めた後のブロック層の上面の凸凹は均質な褐色粘土層で覆われ人為的に平坦にしたものと思われます。

その埋積土から、16世紀の瀬戸焼の天目茶碗が出土しています。前回調査では,墳丘側から埋めていた状況がみられたましたが、これは内濠を埋めるに際してそれぞれの部分で、現場に即応した手順がとられ、埋め立てを実施したグループが複数存在した可能性も考えられます。前回に検出した障子掘(しょうじぼり 内堤に沿って、5m幅で掘底の縦1,9〜2,4m、横0,7〜2mの掘り込みを二列に配し、各掘り込み間に高さ0,5〜0,7mの障壁を設けて敵の侵入をし難くする)は今回は検出できませんでした。

 こうしてみると、内濠を一気に巨大土塊で埋め立てるという大規模かつ計画的でユニークな築造技術の主体者は、用兵の近代化をはかり、銃火器戦術を採用し、安土城など近代城郭を創り出した織田信長が考えられ、ちょうど、永禄11年(1568)には摂津へ侵攻し三好勢を一掃した時にもあたり益々有力な人物になりました。
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