伊 勢 遺 跡


 今回の現場はJR東海道線栗東駅から東約500mに位置し、周りは田畑、新興住宅などが広がる平野部にあります。 当日は270人ほどの考古学ファンが詰めかけ、熱心に写真、メモをとる風景が見受けられました。

この付近は、服部遺跡、下之郷遺跡、播磨田遺跡、ニノ畦・横枕遺跡、下長遺跡、伊勢遺跡、 下鈎遺跡などが散在し、弥生時代前期〜平安時代にかけて認められ、約50万・に広がる遺跡群であり、また近くに位置する 野洲群野洲町小篠原、三上山では24個の銅鐸が出土しており、重要な地域であったと思われます。稲作が伝わった頃から集落が 展開されはじめ、下之郷遺跡などでは、環濠集落、鏃、剣など戦いに関する遺構,遺物などが出土しています。それは、集落どうしの戦 で集落が、集散を繰り返したものと思われます。そして、弥生時代後期、伊勢遺跡ではこれから発表する大規模な遺構が出現し、小規模に散在する集落(村)から、大規模な集落(国)へと発展したと思われる。


その後、下長遺跡では、豪族の屋敷跡の遺構や木製品「さしば」(左写真)ににたものが出土、また、 L字状等の環濠や、船等が出土し、この地方における、物資の集積、集散地として発展したものと思われます。



伊勢遺跡概略

 伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町集落を中心に広がる弥生時代後期の環濠集落です。遺跡東西にのびる標高98m前後の微高地上に 立地していて、過去の調査から、東西約700m、南北400mと推定されています。遺跡の東端(大洲地区)と北端、西端では、幅3m以上の 大溝の一部が見つかっていて,南端で検出された自然河道(幅20m以上)にとりつくように集落の周りを巡っていると考えられます。 西端の大溝のすぐ西側には8基の方形周溝墓が発見されていて、他にもこのような墓域のあることがわかっています。


 集落内部では竪穴住居50棟以上(うち五角形住居5棟)をはじめ掘建て柱建物、多数の柱穴,土壙、溝などが検出されています。

 遺跡の中心部には柵で四角く区画された内側に床面積80・を超える大型建物「主殿」を中心に形式の異なる建物群が整然と配置 された地点(18次・21次地点)があります。またこの中心区画の西側70mには独立棟持柱建物(祭殿・床面積42・)また東側の大洲地区 では、同じ形式の大型建物が2棟(28次地点)、さらみ南側130mの地点(栗東町野尻遺跡)では屋内に棟持柱のある大型建物1棟が発見 されるなど、遺跡の中枢部やその周辺に大型建物が集中しています。おそらく、これらの地点が政治や祭祀を行う場所であったのでしょう。

 伊勢遺跡は近江の同時代の集落と比較しても規模や内容で群を抜いていて、2〜3世紀の「クニ」を治める王が住まいした中心的 な集落であったと考えられます。

二軒の建物が並び、柱穴(ちゅうけつ)は建物の内側にむかって深く、底には拳大の川原石が敷かれていました。 また、棟持柱は建物側へ約8度傾斜していました。二軒とも柱の配置や傾き、規模、柱穴の掘方などそっくりで、棟を揃えて建てられ ていました。ここから約200m東の大洲地区でも同様に、二棟の独立棟持柱付き建物が棟方向を揃えて建てられていました。二棟の真中 に立つと三上山を見ることができます。 

18次・21次地点では四件の建物跡が見つかり、全て棟持柱を持ち、主殿、 副屋、祭殿、倉状建物と別れていたと思われる。


 独立棟持柱付き建物とは、建物の棟を支える棟持柱が建物の外側に離れて建てられる形式のことです。伊勢遺跡ではどれも 1間×5間(約5m×約9m)とほぼ同じ大きさを測ります。この建物は銅鐸や弥生土器にも描かれており、祭祀を行う祭殿ではないかと 考えられています。



出土状況

 今回発見された大型建物(81・)は、西に40mの大型建物と同じ時期に建てられたと思われ規模もそれに次ぐものである。3間×3間 (9m×9m)で柱穴間に幅30cm深さ30cmの溝(A)が掘られ、柱穴の径は90cm,深さ105cmを測り、柱は直径30cmと推定される。さらに、 その内側において2間×2間の柱が配置されていて総柱となる可能性が高い。


 柱穴は(左端写真)直径1m、深さ95cmで柱は35cm程と推定される。外側の柱とは東西方向のみ柱筋が通っている。 二階建てであったと思われる。出土土器から弥生時代後期中頃の建物と推定される。


溝断面から建物の外側には黒い土が認められ、それを埋めるように炭などが混ざった土(生活痕がある)が認められた。柱に沿って 板状のようなものを巡らした後、土で固めたと思われる。                    

 竪穴住居(SH1〜5) 一辺4〜7,5mを測る方形の住居。出土土器(手あぶり、高杯、・・上記写真)から弥生時代後期後半と推定される。

 今回の遺跡面でも、生活痕は認められるが、一般生活の土器はほとんど認められず、祭祀など特別の場所であったと思われる。 

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