・・・ 4500年前の海


 前記のような縄文の海の様子は地下掘削工事や、地質調査、遺跡発掘調査において、次第に判明してきました。       
 この縄文の海の海底の様子を目のあたりにできた遺跡発掘調査が1993年、豊中市の穂積遺跡で行われていました。
「穂積遺跡第14次調査現地見学のしおり」と豊中市教育委員発行の「文化財ニュース」NO18・19からみていきますが、
先に今回の舞台である豊中の地層をごく簡単に述べます。         
 中央部から北部にかけての千里丘陵は古大阪層群・大阪層群やいわゆる段丘層から成り、南部低地域は沖積層から成る。
低地域でも南部、西部の猪名川寄りでは、径 数cm〜10cmの礫層(伊丹礫層、天満礫層対応)が沖積層の下位に存在する。
梅田粘土層に対比される粘土層が庄内幸町、栄町付近以南に厚さ5〜10cmで堆積するが、それより北方や東方では砂質で薄くなり、
浜1,2丁目、服部本町、西町では連続した粘土層が存在しない。穂積遺跡に程近い服部付近にて地下3〜4mの砂層から波打ち際に近い砂質の
海底に生息する貝化石(オオノガイ、ハマグリ、サルボウ、カガミガイ)が出土しています。これはC14測定で4450±140年前とのことです。
この砂層が穂積遺跡で実際に検出された地層です。  
         

 それでは穂積遺跡の地層を現代からさかのぼります。           

3m  現地表                        
    盛り土                        
    江戸期〜近代の水田跡   軟弱な粘土質           
      江戸期の溜め池跡           
    室町期の洪水土層     非常に粗い砂             
                    粘土の塊、埴輪          
                     奈良期の土器も含む      

1m   海底に堆積した土砂    暗灰色の砂や泥             
                      植物遺体   
                     模様だけの貝殻        
                     ボラのえらぶた出土       
    チリメンユキガイ       砂泥〜泥質             

0m  オオノガイ           縄文土器出土(4500年前)      
                     他に多くの種の貝        

    マテガイ            非常に細かい泥          
   
−1m 
   アカホヤ火山灰   (6000年前)          

−3m 砂礫層             伊丹礫層、天満礫層     

今日の地表は盛り土で標高3.5m位で、その下に近代〜江戸期の水田跡が存在し、江戸期の溜め池跡が見つかっています。
その下はとても人が生活できる状態でないようで、室町期の洪水層です。その洪水がどこか上流域で破壊してきたであろう古墳の
埴輪が奈良期の土器とともに出土しています。但し洪水からまぬがれた場所は弥生期の土器(前期の大型の壷と後期の壷)が出土しています。
つまり弥生期の土層を洪水が削り取ってしまい、代わりに削り取った部分に洪水のとても粗い砂とともに上流で削り取った古墳期や奈良期の土
(粘土の固まり)をごちゃまぜにして堆積させています。その下位は猪名川等河川が排出したであろう堆積砂層で、標高1m付近から貝殻の
含まれる海浜性の砂層になり、標高0mの少し上位で幻のチリメンユキガイを含み、0mからやや下位でオオノガイを多量に、−1m前後で
マテガイを含む層です。          

〇二枚貝
アゲマキ……………有明海主要地          
         汽水性の泥深い干潟。ハイガイと同一地           

アサリ………………奥深い海湾の砂泥底の干潟が主で、河口付近の砂泥地にも ハマグリ 
         と同一地            

イタボガキ………・干潮時の汀線より沖の海面下の岩礁地帯 水深40mまで      

オオノガイ………・汽水性海湾沿岸 水深2m位の泥海底         


カガミガイ………・砂地の干潟の干潮の汀線付近から水深1mまで、ハマグリ・アサリより
         少し沖               

カキ(マガキ)………汽水性。淡水の混入するあまり塩分の強くない大河の河口付近や奥深い
         入り江の石や杭に固着             

サルボウ・…………・内湾の波静かな泥海底の上面               
         干潮線の汀線付近からやや沖の水深数mの深さ        

シオフキ・・…………奥深い海湾の砂泥性干潟           


シラトリモドキ……浅海の干潟の砂底             

ハイガイ……………浅海泥海底の干潟の発達地域のみ          
         黒潮の流れる暖海の泥海底干潟          

ハマグリ・・…………砂泥性干潟 奥深い海湾の干潟発達した所          
         満潮時水深1m前後          

ナミマガシワ………干潮線付近の岩礁に着生             
         浅海の干潮の礫、大型貝類の死殻に着生        

マテガイ・・…………内湾の干潮線の汀線付近の砂泥底        


〇巻貝       
アカニシ・・…………浅海の砂泥底の干潟地帯          

アラムシロ…………内湾の潮間帯の砂泥地        

カワアイ・・…………汽水性の砂泥底の干潟          

キサゴ(イボキサゴ)・浅海の干潟の砂地の砂の中       
      


ツメタガイ…………浅海の砂地         

バイガイ・・…………浅海の砂地        

へナタリ・・…………入江の汽水性の砂泥底の干潟       
       


      東京美術発行 考古学シリーズ9 化石の知識貝塚の貝 江坂輝彌 著より  

チリメンユキガイ…海底底深くもぐる        
         今日の日本の海からは死滅の可能性があり幻のチリメンユキガイと言
         われる       

 穂積遺跡で確認限界(湧水の為)の−3m位の地点で砂礫層を検出しています。この砂礫は角がなく、円味を帯びている為、
猪名川で運ばれてきた砂礫層で、伊丹礫層、天満礫層に対応するものであろうと思われます。         
 標高−1m前後のマテガイを含む土層より下位で、縄文海進の一番海面が高かったと言われている時期(約6000年前)の海底だった事が
判明しています。それは、この位置にて、約6500〜5500年前、南西諸島の鬼界カルデラが噴出したアカホヤ火山灰(横大路火山灰)が
検出されているからです。はるか九州の南から風に飛ばされてきたのです。大阪駅前第三ビル地表下15m地点の粘土層、門真の
屎尿処理場地下7mの砂層に対応する地点です。この時期の土層は断面にて確認されたのみで、平面的に確認されていませんが、
あまり貝殻は見つかっていないようです。       
 その後の海退とともに、猪名川等河川からの土砂の堆積で次第に海底が上がっていきますが、まだやや深い海の底を思わせるとても
細かい泥から成る土砂です。この辺りが−1m前後のマテガイを主に含む地点です。マテガイ以外も存在しますが少数で、マテガイも
オオノガイのように多量の状態でありません。       
 もう少し海退が進み、猪名川河口の三角州が発達することによるのか、穂積の海は穏やかな浅い海の状態でオオノガイがわが世の春を
謳歌しています。本当に立錐の余地もない程、検出されています。      



しかも自然に生きていた状態、つまり立ったままでです。これが0m付近、現在の海水面付近です。オオノガイのあまりの多さに目を
うばわれがちですが、浅い海に棲む多種類の貝もかなり出土しています。カガミガイ、サルボウ、ハイガイ、シオフキ、シラトリモドキ、
ナミマガシワ、アゲマキ、ハマグリ、アサリ、マガキ、ツメタガイ、イボキサゴ、へナタリ、イボウミニナ、アカニシ、アラムシロ等々です。
これらの大半が内湾の潮間帯に生息する貝です。貝以外では、スカシカシパンウニ、マダラトビエイの歯や狂暴な部類で水温20℃以上の
暖かい海を好むメジロザメの歯があります。
         


さらにそれらとともに縄文時代中期(約4500年前)の土器片が2点出土しています。   
                  
しかも単なる土器片でなく、土器片錘という土器の破片で作られた錘です。土器片の両端に網の縄をかけるであろう刻み目がはっきり見れます。
つまり、このオオノガイが多量に見つかった地点は約4500年前の海底だったことが判明します。扇町の地表下7〜10mの砂層、東大阪市布市町、
標高−2mの粘土層が対応すると思われます。       

それでは、この時の穂積の海を出土した貝や堆積している土砂や地形等から想像してみましょう。        
@ 多量のオオノガイが生息していた状態で見つかった為、オオノガイの生息特徴とその出土土層から、水深2m位の泥海底というのが判ります。
実際、出土土層は泥に近いものでした。泥底ということは、河川の流れが直接すぐ近くに、急流で流れ込んでいないであろう。
直接流れ込んでいても、少量か、ゆったり、ゆっくりであろうと思われます。もし、すぐ近くなり、それなりの流れがあれば、泥でなく砂が主に
堆積すると思われるからです。             
A その他の貝の生息特徴から浅海、内湾、汽水性砂泥質〜泥質の海底、干潟が存在又発達しているというのが読めます。内湾ということは、
岬や半島等で、ある程度閉じられ気味で、波おだやかな静かな海が連想されます。汽水性ということは、近くに河川が流れ込んでいる
必要があります。砂泥質〜泥質ということは@に記した以外にも近くに海食崖の存在は想像し難いものがあります。        
B 自然地形からみましょう。今日の地図では地形がわかりにくい為、昔(明治?)の地図を用います。   
    

                       図6

穂積は西に猪名川、藻川、東に天竺川、北に千里丘陵に囲まれています。上の地図をみると、2.5m、2.75mの等高線が猪名川、藻川沿いに
かなり南へ出張っています。他の等高線も千里丘陵のすそから発し西、又北西方向へ向かいながらも、途中から猪名川、藻川の方へ南下する
傾向が見れます。         
(明治の頃の地図かと思われ、低地の等高線の信用性を疑った為、昭和7年発行の地図と等高線の5m、10m、15m、20mを比較したが大差なく
問題ないと判断した)    
 つまり、猪名川、藻川がかなり土砂を運搬、堆積させている証拠であろうと思われます。もちろん今日の地形と4500年前とは異なりますが、
土砂排出量が基本的に一定と仮定すれば、当時も同じような状況であったと思われます。猪名川、藻川は基本的に三角州を形成しながらも、
主に土砂の堆積を河道沿いに細長く棒状に延ばしてきたと思われます。
 一方、天竺川は千里丘陵から幅広い谷を通って、まっすぐ南下していますが、土砂の運搬、堆積は比較的多くないようです。それより、
この地図の範囲外ですが、天竺川の少し東に位置する高川(今日の吹田市と豊中市の境)の方が、猪名川、藻川程ではありませんが、
かなり土砂を運搬、堆積させています。同じく、河道沿いに堆積させています。
 河川が円弧状三角州を形成するのは海の流れがある程度ある所で、全体として砂の層は板状になり、波のない静かな入り江のような所では
砂の層は河道沿いに細長く延びて行くといわれます。これからすると、この辺りの海は波のない静かな海だったことになります。
 上の地図で思い切って当時の海岸線を引いてみます。地図のあ〜いラインにて当時の海の断面を作ってみたのが下図です。
      

                        図8


〇あ〜いラインを、海面0mとし各等高線との交点をおさえる。        
〇穂積遺跡はライン上にないためあ いラインに直行する点を穂積遺跡と仮定してうとす                                          る。       
〇縦を高さとし、各ポイントの高さを結んだラインAは地表面    
〇海底の起伏は不明の為、地表面と同じ傾斜と仮定し、オオノガイ出土のうに0mを通るように、Aの平行線を引いたのがB        
〇オオノガイの特徴、海底2m位に生息から当時の海面を現海面より2m上昇させたのが、当時の海面ラインC        

Aラインは現地表。当時の海底は現地表と同じ傾斜と仮定してBライン。海面はオオノガイの生息特徴の水深2m位ということから、
出土地点=現海面を2m上昇させたのがCライン、そしてBラインとCラインの交点が海岸という想定です。これでみると、現在の5mの等高線が
海岸になります。わたしは正解ではないが、それ程大きく誤っていないと思います。猪名川、藻川は池田で山峡を抜けた後、それ程蛇行した
痕跡を残さず、途中、箕面川を合流させながらまっすぐ南下します。



それが酒井村(口酒井)で急に南東へ振ります。それとともに10mの等高線がそれ以上のものはそうでなかったのに、急に猪名川、藻川の方へ
吸い寄せられるように、引っ張ってこられます。流路の方向が変化するのは、海に流れ出た淡水が冬の偏西風により東へ振られる為、土砂の
堆積も東へよって行くと思っています。そしてまっすぐ南下していたのは海へ堆積させていたのでなく、陸地に堆積させていたのだと思っています。
なお天竺川もまっすぐ南下して南下して流れていますが、これは、人の力により流路が固定された為でもあると思います。      
 以上の2点からだけですが6000年前の縄文海進の最盛期の海岸は今日の10m等高線の辺りでないかと思い、その後の海退と土砂の堆積を
経て4500年前の海岸なら図8から導き出した5mの等高線辺りで良いのではないかと思われます。藻川の田能付近にて川床下約2mの
海成層のほぼ上限に当たると推定されている青灰色砂層はC 14結果5960±90とあります。今日の等高線6.25〜7.5mラインの間です。      
 5m等高線当たりを海岸としてみますと、北の千里丘陵の裾まで海で海食崖が存在するようにみえます。海食崖は6000年前は存在したかも
しれませんが、この4500年前当時には、千里丘陵を下がる谷川が土砂を運搬堆積させて、かなりの部分海食崖は埋まってきたきたのでないかと
思います。千里丘陵を侵食する谷川は天竺川を別にしてもA B C D Eと5本は見られます(図6)。Aは池が築かれていますので、それなりに流れが
あったのでないでしょうか。とすれば土砂の供給もあります。Bは谷が深く見れます。そして、その出口の曾根村の西側は谷川の運搬 堆積物の
上にあるように思われます。同じように、原田村の南側部分は、C D Eが侵食 運搬 堆積させたものでないでしょうか。深く長い谷Eはかなり土砂を
供給させたことでしょう。Cはその出口が原田村です。等高線の7.5m、6.25mラインは千里丘陵に平行します。他にも、地図にのらない無数の
谷川もあるでしょう。丘陵自体に風化作用も働いているでしょう。それら故に千里丘陵の裾部分はかなり土砂が堆積してきていると考えています。
     
 千里丘陵と猪名川の間に千里川が流れていますが、地図からは旧流路を推測し難いです。勝部村から南はほぼ旧流路なのでしょう。千里川も
千里丘陵を侵食、土砂を運搬、堆積させていたことでしょう。
 以上のように一枚の地図から仮定でもってかなり強引に海岸を想像してみました。

                      図9

約4500年前の穂積の海、及び付近の地形の想像図            


C 潮からみてみますと、潮の干満差は太平洋側が日本海側より大きく、大潮時には2m位あり、大阪湾も2m位とのことです。そして汀線の
傾斜が緩いと同じ干満差でも、その水平距離は長くなります。有明海では、水平距離何kmになる時もあると聞きます。現海面を2m上昇させると、
当時の海面であろうと思われますが、干満差2mということはさらにもう1m上昇する時もあるとのことでしょう。出土貝の特徴からすると、ある程度
干潟が発達していると思われますので、汀線の傾斜は緩く干満差に伴う水平距離は長いでしょう。


@〜Cを総合させると、西側は藻川が排出する土砂で南東方向へ砂の堆積物がやや突出し、北へ内湾気味になり、猪名川、千里川が注ぎ込み
、千里丘陵からは天竺川を含めて小さな谷川も土砂を運搬し、東側は高川が吐き出す土砂で再びやや南へ出張る(図9)。このような大きな
内湾気味で波静かな、水深2m位の浅い汽水性の砂泥〜泥底で、干潟がある程度発達した海、そこの中央に穂積は位置しています。各河川は
普段、ゆっくり、ゆったりの流れであまり土砂を運ばず、多量の土砂を排出するのは大雨、洪水時のみという状況、しかも排出された土砂のうち
比較的粗い砂等は河口辺りに堆積され、細かい泥は広がって堆積する。その為に穂積の地域は汽水性で砂泥〜泥底が保たれているのでしょう。
今日で当てはめてみると、貝の種類からみても、有明海ぐらいしか近い状況は見当たらないかもしれませんね。    





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