遺跡で遊ぶ  −空想非科学歴史−
1 遺跡で遊ぶ
 遺跡で遊ぶと言っても、一般の人々には直接遺跡を掘らしてもらえないし、見学を許されるのも現地説明会で、しかも誘導路から、遺物はガラスケースの中でゆっくり手 にとってじっくり観察できない。ほとんどがベ−ルで隠されている遺跡で一人どうして遊ぶのか?それは自分の頭の中で遊ぶのです。公式に発表されている資料から自分勝 手に色々と想像してみるのはどうであろうか?学者でないし、自分一人なのだから、第六感や推測、故事付け、何でもありの世界である。但し、ある程度、理屈を通すとい うルールを守らないと、面白くなくなり勉強にならない。
 材料としての資料は報告書が詳しくて良いが、発掘件数の割に報告書が出版されていないし、出版されていても、一般には手の届かない体制になっている場合が多い。一 般にも販売していても高価な場合が多い。最も簡単に安価に入手可能な現地説明会パンフレットで遊んでみようと思う。確かに現説パンフは簡略過ぎるきらいもあるが、そ れでもその遺跡の目玉や概略はしるされている。
 最近興味深い遺跡の現説パンフが手に入りました。無断で失礼ながらそれを利用させてもらいます。それは豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との小牧・長久手の戦い (天正12年・1584年)の際、秀吉が織田側の重臣水造氏の城を攻めるのに地元領主榊原氏に築城を命じた「付城」(敵城を攻めるとき、その周囲に作る前線基地)でないか とも推測され、新聞報道された三重県久居市の上野遺跡です。但しその関連の遺構は掘以外ほとんど確認されていないようです。それでは現説パンフから概要を見ていきましょう。 写真、図版は全てげんせつパンフからの転載です。

2上野遺跡
 上野遺跡は三重県久居市戸木町上野に所在し、平成11年10月〜平成13年3月にかけて約47000uを第1地区、第2地区…第9地区と9区画に分割して(図−1)久居市教育委員会を主体 とする
 上野遺跡調査団が発掘調査しました。

図―1 調査区図


図―2周辺の遺跡分布図

 この遺跡は雲出川と蛇川により形成された河岸段丘上に立地し、その比高差は約15mです。周囲には遺跡が多く(図―2)先土器時代から縄文時代の田尻上野、下名倉遺跡、 弥生時代の貝鍋、長持元屋敷、鳥居本遺跡等、古墳時代は片野の集落遺跡の他、上野、前岡、日向、庄田、元儀八山行成、上野山、ヒジリ谷、中野山等の古墳及古墳群があります。
なお、当調査地区の北側にも古墳が数基残存しています。飛鳥・奈良時代の高寺廃寺、八太廃寺、奈良から平安時代は小戸木、牧、長持元屋敷等、中世以降は宮山、戸木、 久居川方の各城跡があります。
 9区画の調査区を第1地区から順に見ていきます。
2−1、第1地区(図―3)
ア) 弥生時代後期〜終末期の竪穴住居6基と方形周溝墓
竪穴住居跡は北面から南東にかけて楕円形の環状に配列された状態で並ぶ。
方形周溝墓は北辺中央部に溝の途切れた橋部分がある。
イ) 古墳時代後期の円墳2基
ウ) 直線状と「L」形の区画溝に囲まれた中世の掘立柱建物跡群
エ) 調査区北端中央から東端中央への多数の道側溝、これは途中にて南方向と東方向への
二方向に分岐しており時期差が考えられる。


図―3 第1地区遺構平面図

2−2 第2地区(図−4)

ア) 第1地区検出の円墳の周溝の延長部が検出され周溝を含めて直径は約19mと判明
周溝内から土壙は周溝の外線に沿って並び、平面形は隅丸の長方形が基本形で長辺1.50〜2.90m。短辺1.10〜1.30m深さ0.15〜0.40mです。各土壙から須恵器が上面付近で出土していますが、土壙4は南西端の底付近で須恵器の杯(1つは蓋と身のセット、もう1つは身のみで3点)が出土しています。これら土壙は墓と、須恵器は副葬品と推定されその須恵器から6世紀前半頃と考えられています。

 
土壙4、3、2、1  手前が4  奥が1  (南西より撮影)


イ) 調査区東半部にて溝により区画された中世の屋敷地2区画を検出。南側の区画の一辺
は約40mで、区画内の建物跡に伴う土杭出土遺物より13世紀後半頃に屋敷地形成されたもよう。

 図―4 第2地区遺構平面図

2−3第3地区(図―5)
ア) 中央部に方形、南西部に東西方向、東部に南部方向の区画溝がある。
中央の方形は南北約60m、東西約40mのややいびつな長方形で東辺中ほどの鉤形の溝で二分されている為2つの屋敷地が1つの区画を共有していたと思われている。
東辺溝の一部が約7m途切れる部分は区画内への出入り口と、また、区画内の遺構の不在地域は進入路広場と推定されている。出土遺物から15世紀後半から16世紀中頃に区画溝は埋没した模様である。
イ) 第5地区へと続く堀の屈曲部が検出される。
東西約110m以上南北約20m以上幅約5.0〜6.6m深さ約1.8〜2.2mで平面形は「L」字状を呈する。掘りの斜面は屈曲部では東側は急勾配であるが、西側は比較的緩やかで途中に掘削時における足場であるかのような段がある。
埋土層は上・下2層に分かれ、上層は土塁を破壊して埋めたかのようであり、上・下層の境目に別の新たに掘られた溝が認められている。

図―5第3地区遺構平面図

2−4第4地区(図―6)
ア) 6世紀前半頃の円墳2基(周溝を含めて直径22〜25m)
東側に位置する円墳の周溝内から家形埴輪を棺に転用した墓が検出されている。棺身の全長約90cm、幅約35cmで二階建てと平屋建ての2種類の家形埴輪を利用し、各々の底部を合致させ1つの棺にしている。両家形埴輪とも寄棟家で屋根の頂部は粘土ひもを張り付けて細かく表わし、出入り口線刻にて描かれ、その両側に綾杉文が施されている。

   家形埴輪棺出土状況
両面の中央より屋根寄りに円形スカシがあり、二階建て屋は一階部に長方形のスカシを用い、高床式建物を模しているかのようです。なお粘土ひもで表わされた屋根の頂部は棟仕舞(むなじまい)と言われる茅葺屋根の仕上げ方法を表わしていると思われます。
埴輪を棺として転用するのは時々見られますが、通常円筒埴輪や朝顔形埴輪であって家形埴輪を棺に転用されたのが出土したのは全国で初めての例とのことです。
家形埴輪は5世紀末期のものと推定されますが、周溝出土の須恵器の杯身から古墳の築造時期は6世紀前半と考えられています。

 古墳の周溝出土の須恵器

なお、調査区北西方向の上野古墳群には6世紀後半築造と推定の古墳が7基残存し、南方向は元儀八山古墳群と称されていたこともあるとのことです。

7世紀中頃の土器埋納遺構

イ) 7世紀中頃の土器を5個埋めた遺構を検出。   

  土器埋納遺構の須恵器と土師器

直径約60cm、短径約40cm、深さ約10cmの惰円形の穴に須恵器4点、土師器の甕の破片1点埋められていて、須恵器は全て内面が上向きであった。祭祀、また墓の副葬品かと思われる     
ウ) 各区同様の溝で区画された中世の建物群

(図―6)第4地区遺構平面図

 2−5 第5地区(図―7)

ア) 溝により方形に区画された中世の屋敷地とそれに伴う可能性のある土房跡
土房は鋳造作業の場で出土した奈良火鉢により、15世紀中頃と思われています。
イ) 第3地区からの続きの掘り(当調査区検出長約90.00m、幅約4.00〜6.00m、深さ約2.0〜2.80m)及、土塁(残存高約1.80m、基底部幅約2.40m)の一部検出掘りは徐々に埋まって行き、最後に(上層において)土塁を破して埋めたようである..
土塁はごく一部のみしか残っていませんが、堀と平行して築かれていたと思われています。土塁を構成する土は基礎の部分には当時の地面近くにあったであろう。黒色の土で頂上に近づくにつれて褐色土になっていき、礎や礫が混じってきます。つまり土塁は掘を掘って出てきた土を盛って築かれた模様です。
掘と土塁は中世の区画溝を一部壊し土塁の延長部であろう場所に区画溝に伴う建物跡が検出できるので、区画溝を持つ屋敷が廃絶後に掘と土塁が形成された模様です。なお出土土器からみると区画溝の埋没は15世紀後半から16世紀中頃と思われます。

図―7第5地区遺構平面図

2−6第6地区(図−8)
ア) 円墳が2基。直径は12mと13m。周溝内から弥生時代前期の甕の破片が少量出土しています。

            円墳2基 北西より撮影
イ)古墳時代後期から奈良時代にかけての竪穴住居跡、掘立柱建物跡群、土器埋納遺構を検出
竪穴住居跡は、東群5基、西群5基から成り、各々 別グループで何れも建替えが確認でき、3,4基が6世紀末から7世紀の同時期に存在したもよう。
掘立柱建物跡は何れも大型の掘り方を持ち、2間×2間が1棟、2間×3間が3棟、2間×4間が2棟、3間×3間が4棟坏、5間×5間が1棟の11棟を確認。
土器埋納遺構は東群の竪穴住居跡北東側に存在するが、竪穴住居に伴わない可能性もあります。
須恵器の坏身、坏蓋6点、土師器の甕片1点が埋納され、須恵器の坏は2点ずつ内面を上向きにして重ねられていました。同じような土器埋納例は、2,4地区においても3基確認されており、祭祀的なものと思われています。

         土器埋納遺構                

ウ)鎌倉時代から室町時代にかけての方形区画溝、掘立柱建物跡、土坑、井戸、土壙墓等です。方形区画溝は5箇所検出したが、南東側はその空白地になっています。
掘立柱建物跡は総数61棟を確認。
土坑は様々ですが、方形なものは建物の南東隅に伴う可能性があります。
井戸は石組み井戸1基を検出
土壙墓は調査区東端において墓域を区画する2条の溝にて墓域が設定されていました。出土遺物は五輪塔、六文銭、磁器等で、それから中世末から近世初頭及び近世末から近世にかけての2時期の墓と知れました。

      図−8 第6地区遺構平面図        
それにつれて過度の燃焼を施した火葬墓、直径約10cm大の円礫を敷詰めた集石墓、素掘の土壙墓と多種にわたりました。

2−7 第7地区(図−9)
ア) 形状不明ながら古墳の周溝1条
土師器、須恵器の破片とともに、比較的多くの円筒埴輪の破片出土
イ) 古墳時代後期の竪穴住居跡7基
配置は分散的で規則性認められない。
住居の北側にカマド、南側及東側に貯蔵穴状の土坑1箇所検出されるが模範的な主柱穴4本は検出されない。
ウ) 中世の方形区画溝をもつ屋敷地
当調査区内では6区画
方形区画の溝の内からや土坑内から宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎石や一石五輪塔(いっせきごりんとう)がいた為、近世に墓地があった可能性があるとのことです。                   

一石5輪塔出土状況


図−9 第7地区 第8地区 遺構平面図

2−8 第8地区(図−9)
ア)7世紀から10世紀にかけての竪穴住居跡17基、掘建柱建物跡11棟を確認
竪穴住居跡は7世紀前半のカマドを持つものや、一辺8.5mの大型のものも含まれています。掘立柱建物跡は奈良時代から平安時代のものが主で、庇付きのものも見つかっています。建物の主軸が正確に磁北に向いているのも見つかっています。
ウ) 幅約2m深さ約1mのL字状の二重の溝
溝内から中国龍泉窯系青磁碗(13世紀後半から14世紀初め)一片が出土していますので、溝もその時代かと考えられています。
中世においては、他の調査区において検出している区画溝をもつ屋敷地が認められず、この二重の溝のみです。

2−9 第9地区(図−10)
ア)13世紀中頃から16世紀前半の区画溝8条、井戸4基、土坑38基、墓12基、建物跡数十基等検出。
区画溝は逆コの字状の東側に開口部を持つものが基本形です。
区画溝の割り付けは河岸段丘の自然地形を利用されていて、当調査区では西側部に区画溝1,2,5,6と区画溝4の間に南北に道が走り、それらの東側部分の谷を背にする区画溝は地形状の制約から、取り囲んでいないと考えられている。また今日の農道も古代からのものを踏襲しているとのことです。
建物跡は数回の建て直しを想像でき、1区画で10数棟の建物が並ぶ可能性もあるとのことです。
建物跡に付随する柵列跡も確認できています。
区画溝8の南東部周溝内から墓壙が検出され、信楽焼のほぼ完形の壷(14世紀後半から15世紀初頭)が出土しています。
区画溝7の溝内から石組遺構が検出され、五輪塔(空・風・火・水・地輪)の一部である火輪が含まれていました。それには四方に発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)・菩提(
ぼだい)・涅槃(ねはん)の四転をあらわす梵字(ぼんじ)が刻まれていました。
他に五輪塔が1点出土していて、ともに15世紀から16世紀頃のものです。
遺物として他に、区画溝や建物跡から山茶碗、山皿、土師器、瓦器片、奈良火鉢片、常滑焼甕片、擂鉢片、こね鉢片、灰釉陶器片が出土しています。これらの遺物は13世紀後半から16世紀前半という年代のものです。

         図−10 第9地区遺構平面図

2−10 まとめ(図−11)
上野遺跡では大きく、弥生時代、古墳時代から奈良時代、鎌倉時代から室町時代の三つの時期の遺物や遺構が検出されました。
弥生時代前期は第1様式の甕の破片が出土したのみですが、後期には第1地区において、竪穴住居跡6基と方形周溝墓1基が発見されています。
古墳時代から奈良時代にては、古墳が7基、埴輪が出土するものや、周溝内に埋葬施設(家形埴輪棺や土壙墓)を持つものがあります。後期から終末期にかけての竪穴住居跡は38基も検出され、第7・8地区に集中していましただ、第2・3地区にも単独で数基存在しています。何れも北側又東側にカマドを持ちます。そして終末期の土器埋納遺構、奈良時代の掘立柱建物跡があります。
鎌倉時代から室町時代は区画溝、掘立柱建物跡、土坑、井戸が確認されています。鎌倉時代は第1地区の条溝と掘立柱建物跡でしたが、室町時代には方形区画溝を持つ屋敷地に整備されています。それは中央部のものが大き目(一辺約40m)で周辺部のものがやや小ぶり(一辺約20m)となっています。
そして中世末期に方形区画溝や屋敷地を壊して大型の掘と土塁が造られます。これが戸木城を攻める際、秀吉の命で造られた付け城でないかと推測された遺構です。
以上が現地パンフから読んだ上野遺跡の概略です。ここまでは遊びも私の推測も何の味付けもせず、すなおに、そのまま読みました。それでは次回の節で遊んでみましょう。
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