栗栖山砦跡


平成11年1月23日 茨木市 栗栖山砦跡 現地説明会

栗栖山砦跡概略図

 私も色々と現地説明会に行きましたが、こんなに体力を使った説明会は始めてでした。

まあ一言で言えば、えらいめに遇いました。規模が大きいとはわかっていましたがこの年で、

ここでハイキングするとは夢にも・・・足に身がはいるわ、腰は痛いわ。しかし1000人をこえる

人達が集まり、解説も何回にも分けて行われるという予想以上の盛況の中始められました。


 栗栖山砦は規模があまりにも大きいために(長さ約150m,幅約70m,面積約150・)、

砦と言うよりも山城と言うほうが正しいかもしれません。北摂の山岳地帯の南端、

茨城サニータウン(ニュウタウン)の近くに位置します。非常な急斜面な尾根の先端部にあり、

見渡せば大阪、茨城、高槻、京都方面と広く見渡すことができます。近くには、西国街道(京都−兵庫方面)、

京街道(京都−大阪)、清坂・国見街道(亀岡−大阪)、などに挟まれ、砦(城)としては絶好の位置にあります。

急斜面の頂上面には17個所の平坦面(曲輪−くるわ)で構成され、大きい曲輪が3箇所連なり、

その曲輪にはそれぞれ建物跡が残っていました。南西端には武者隠しと呼ばれる曲輪17が見つかりました。

なかでも曲輪1(4×8mの規模の建物に北と南に庇があり、スサが混じった土の塊が多量に出土していることか

ら、土壁に覆われた建物)には礎石や多量の土壁が赤く焼けており,平坦面も赤く焼けていることから、 火災に遇

ったことがわかりました。曲輪2の南西端から2×2間の掘建て柱建物跡が見つかり、曲3では礎石の一部 がなく

なっているために、大きさはわかりません。

 尾根に対して垂直方向に二箇所竪堀が掘

られており、また土塁も築かれ、尾根伝い

に敵が攻めてくるのを防ぐ役目を果たして

います。竪堀1,2 は急斜面に掘られ、岩盤

が剥き出しになっているため、登ることは

できません。しかし通路3が竪堀2に分断され

ているところだけは、なんとか歩くことがで

きます。竪堀6も同じく急斜面のため、侵入

は難しい。

 出入り口は、外部からの通路3,4から曲輪2

へ向かって石敷きの通路5が見つかり、その

両脇には石垣のある張り出しがあります。

またそこには直接入ることができないよう

に、2回くの字に折れ曲がようになっていま

した。写真でもわかるように、人々の長い行

列は、あたかも敵が攻め込んでくるように見

えてきます。

 石垣は曲輪の斜面のいたるところから見つ

かっていますが、1〜3段しか残っていません

でした。防御面と曲輪の平坦面が崩れないよ

うに造られたようです。


出土品

 出土物としては、輸入陶磁器(青磁、白磁)、瀬戸、

美濃、土師器、瓦質土器、銭、鉄くぎ、刀、ヤスな

どが見つかっています。

 

 栗栖山砦跡は,茨木市佐保字クルスに所在し,今回戦国時代(16世紀半)の砦跡であることがわかりました。

この砦に関する文書などは見つかっておらず、また今回の調査でも具体的な歴史上の人物に結びつけることはで

きませんでした。


歴史年表

1553年 天文3年  三好長慶、芥川城を攻撃、開城。1560年まで在城

1560年 永禄3年  三好義興(長慶の長男)、芥川城入城。

           義興没(1563) 長慶没(1564)

1565〜1568年 永禄8〜11年

           松永久秀と三好三人衆の対立が表面化。両者は畿内で戦いを続ける。

1568年 永禄11年  信長、摂津へ。三好氏ら芥川城に立てこもるが、逃亡。松永久秀は

           降伏し、大和を安堵。信長、芥川城入城。和田惟政、芥川城主。

           高槻城開城。

1569年 永禄12年  和田惟政、高槻城の城主になる。高山飛騨守が芥川城主になる。

1571年 元亀2年  惟政没、惟長(惟政の子)が高槻城主となる。(信長比叡山焼き討ち)

1573年 元亀4年  和田惟長、高山右近と荒木村重に高槻城を追われる。高山氏が高槻

           城主となる。

1573年 天正元年  室町幕府滅ぶ

1576年 天正4年  信長、安土城築城に着手。

1577年 天正5年  信長、伊丹城の荒木村重討伐のため、摂津に出陣。

1578年 天正6年  高山右近、信長に降りる。高槻城開城。

1582年 天正10年  本能寺の変 
SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ 掲示板 ブログ