伶人町遺跡
REJINCHOISEKI

現地説明会資料

                                                               平成17年(2005年)7月16日(土)
                                                               西近畿文化財研究所
1.調査地   大阪市天王寺区伶人町1丁目6番地

2.遺跡名   伶人町遺跡

3.調査動機  大阪星光学院校舎の建替

4.調査期間  平成17年3月24日〜平成17年8月末

5.調査面積  約944.5u

6.調査概要
 当調査は大阪星光学院の校舎立替建設が予定されたことから、その工事に先立つ発掘調査です。調査地は1地区(80.5u)、2地区(201u)、3地区(663u)の3ヵ所があり、1地区より調査を進めてきました。現在は3地区を調査中です。
 今回の調査は伶人町遺跡の中で最も調査面積が広く、また、数多く貴重な調査成果を得ることができましたので、本日、現地説明会を開催させて頂く運びとなりました。調査にあたっては、大阪府教育委員会、大阪市教育委員会、(財)大阪市文化財協会より調査指導をいただき、大阪星光学院の方々に全面的なご協力、ご支援をいただきました。厚くお礼申し上げます。


7.遺跡概要
 伶人町遺跡及び四天王寺旧境内遺跡の発掘調査は小規模な調査が多いですが、遺跡の全容を解明するまでには至っていません。従前の調査成果としては、その多くが中世後期から近世を主体しますが、僅かに奈良・平安時代のものも見られます。検出された遺構は、いずれの時代も掘立柱建物、井戸、堀、溝、土坑がみられ、その中で特徴的なものとしては奈良・平安時代の溝、掘立柱建物と中世後半(14〜15世紀)の堀が挙げられます。溝、掘立柱建物は四天王寺の伽藍の方向に対し平行するものと斜行するものがあり、この違いによって、寺域の変遷が述べられています。堀は四天王寺を大きく取り囲む状態で数ヶ所が確認されており、当時の戦乱状態が指摘されています。これらの貴重な成果から、時代とともに変遷した四天王寺の寺域や遺跡の解明に大きく期待されています。

8.調査目的
 今回の調査地は、飛鳥時代に創建された四天王寺の西側隣接地に立地している関係から、次の5項目の調査目的をもって開始しました。
1.四天王寺の寺域の可能性もあり、創建(飛鳥時代)に関する遺構・遺物の成果。
2.平安末期に浄土教の流行から四天王寺西門を極楽の東門とした信仰祭祀に関連する成果。
3.中世の四天王寺に関連する門前町、町屋の遺構・遺物等の成果。
4.織田信長が石山本願寺攻略の拠点とした天王寺城に関連する遺構・遺物等の成果。
5.当地の伶人(楽人)町の地名から四天王寺舞楽団の住居に関連する成果。
6.四天王寺が建立される以前に存在していたと考えられる荒陵(アラハカ)=古墳に関連する成果。
 以上の内容以外としては、近世末から近代中頃まで存在した浮瀬(ウカムセ)=高級料亭もあります。

9.調査成果
 今回の調査によって得られた成果は、四天王寺の創建(飛鳥時代)に至るまでのものを得ることはできませんでしたが、古墳時代、平安時代、中世、近世に関連する数多くの遺構・遺物を確認することができました。これらの成果は時代別に掲載いたしました。

古墳時代
 古墳時代後期の須恵器ツキブタ、円筒埴輪片が出土しました。古墳そのもの遺構を確認することはできませんでしたが、当地周辺には埴輪を持った古墳の存在が考えられます。四天王寺は荒陵(アラハカ)=古墳を壊して建立されたと言われていることから、その存在を裏付ける一因となります。
平安時代
 平安時代前期の掘立柱建物群と数条の溝を検出することができました。現在は調査中であることから精細な内容については確定できませんが、掘立柱建物は15棟以上が整然と並んでいます。個々の柱穴は方形や円形のものがあり、柱穴の規模は一辺が90cmを測る大型のものもあります。建物の時期は柱穴の重なり状態から4時期以上が想定できます。建物SB01は四天王寺の伽藍に平行していますが、後の建て替えられた建物SB06 は西へ僅かに振っていることが明らかになりました。溝は調査地の北西部にて南北に走っている3条を確認しました。溝の性格は建物を区画するものと考えられますが、建物群に対し若干西側へ振っていました。出土遺物には平安時代前期(9世紀前半)の墨書土器、緑釉陶器、土師器、須恵器、瓦等やガラス器の小片があります。

中世・近世
 中世・近世の遺構を多数検出することができ、四天王寺の門前町の繁栄を知る手掛かりを得ることができました。その中でも中世(13〜15世紀)に最も多くの遺構が現れます。検出した遺構は掘立柱建物、井戸、堀、溝、土坑等があります。特徴的なものとしては土坑、井戸、堀、があります。土坑は方形の「地下室」(チカムロ)と楕円形の廃棄坑があります。地下室はいずれも素掘りによる造りで、深さは2mを超えるものもありました。廃棄坑は大型のものが多く、中には大量の貝殻を捨てたものもありました。貝殻の種類は殆どがハマグリですが、淡水のタニシ等も含まれていました。また貝殻は多量に及ぶことから、一般の生活より出たものでなく、中世の文書に記されている「浜市・宝市」等に関わった専業商人の存在が想定されます。井戸は約20基を確認しました。当地は近接する清水寺の名に表現されているように名水で有名な地であることから井戸造りの頻度も高かったように思われます。井戸内からは牛下顎骨も出土し、雨乞いのまつりに関わるかもしれません。堀は南北方向に走っており、北部で鉤の字状におれまがっています。規模は幅2.5m、深さ1.3mを測る大型のもので、平面・断面形状や規模から考えると通常の町屋等の区画と考えるよりも防衛的な性格を持つものと言えます。核当するものとしては、織田信長によって築かれた天王寺城(16世紀)を挙げることができますが、溝内から出土した遺物の時期は天王寺城より僅かに遡った15世紀であることが判明しました。現段階では、今日までの四天王寺旧境内遺跡の調査によって検出されている寺域を区画した堀と同様の性格を持つものと考えられます。

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