向山1号墳


向山1号墳

 現場は近鉄吉野線の壷阪山から西方面に約10分ほど歩いたところの高取町役場(高取町大字観覚寺)の裏にありました。役場の周辺は、小高い丘陵上に20数基の古墳(観覚寺古墳群)があり、それらの古墳は約10〜20m弱の群集墳です。今回の向山1号墳はその中の小字向山に位置し、丘陵から北へ派生する尾根の先端部分(標高120m)にあります。


今回の現地説明会報告資料ならびに説明から抜粋

 南斜面の地山を大きく削ったり盛り土を積んだりして墳丘を造っています。葺石はなく土器もほとんど見つかりませんでした。直径約20m高さ2,5mの円墳と考えられます。

 墳頂部の中央やや西寄りに南北方向に長さ6,6m幅2,5mの墓壙(ぼこう)を検出し、内には、長さ5,3m幅60cm深さ30cmの竹割形木棺の痕跡がありました。木棺は粘質土で簡単に包まれていましたが木棺は残らず、棺に塗っていたと考えられる赤色顔料(成分は分析途中)がわずかに残っていました。木棺直葬を埋葬施設とする前期古墳です。


埋蔵品

 あまりめだたなかったのか、埋葬施設が未盗掘でさまざまな遺物が出土しました。棺外には、長さ88cmの直刀がありで鞘が残っていました。壊れやすいためこの説明会には展示できず。他に、短刀、刀子(とうす)、鉄鏃(てつぞく)等の武器と、槍カンナという工具と、緑色凝炭岩製の管玉(長さ4,5cm)がありました。棺内には青銅製の面径約10cmの1号鏡と8cmの2号鏡があり、どちらも絹と麻で包まれ、鏡面を上に向けて置かれていました。

1号鏡

二号鏡

臼玉

1号鏡は被葬者の骨や歯の出土状況から、頭の北40cm、2号鏡は被葬者の東側面に立てていたか、頭の下(枕)の位置にありました。1号鏡は方格規矩鏡で紐痕があり(上質)、2号鏡は四獣形鏡といわれる鏡、どちらも国産です。玉類は管玉(碧玉製と緑色凝炭岩製)、丸玉(ガラス製)、小玉(ガラス製)、臼玉(滑石製)などが約600個出土し、これらの玉は1号鏡周辺に連で(首飾り)置かれていたものと、被葬者の周辺にまかれていたもの(玉まきの儀礼)があり、質の良いものは連にし、主に滑石製のようなものはまいたと思われる。この時期での中小首長の埋葬形態を知る貴重な資料です。


壷阪寺散策

 当日は朝10時からだったので時間があまり、ここまできたついでに、近くにある南法華寺(壷阪寺)へと足をのばしました。近鉄の壷坂山駅からバスで15分ほど高取山の西側の裾に向かって登っていきました。まさかこんな距離があるとは思いませんでした。さすが見晴らしはよく、大和三山(畝傍・耳成・天香久山)を眺望することができ、思わぬ拾い物をしました。壷阪観音霊験記で知られる同寺は西国三十三観音霊場第六番札所になります。

壷坂観音霊験記 ―浄瑠璃。世話物 1段、作者不詳。明治12年初演、「観音霊場記」に二世豊沢団平が節を付け、その妻加古千賀が加筆。盲人沢市が美しく貞節な妻お里の信仰心で開眼する話を壷坂寺の霊験に仕組んだもの。(マルチメディア総合辞典より)

同寺にはやはり目薬などが置かれ、沢市が使用した杖、夫婦で谷に飛び込んだ場所などがありました。また霊場のため巡礼者の姿も見うけられました。

              南法華寺 (壷坂寺)

 大宝三年(703年)元興寺の僧・弁基上人が壷阪山に庵をむすび、水晶の壷をこの上なく愛していたが、あるとき壷の中に観世音のお姿を感得し、像を刻み、壷を坂の上の庵に納めた。人々は弁基上人を「壷坂上人」と呼んだというが、それを知った元正天皇は、養老元年(717)八角殿を建てて壷を納め、観音像を安置し、礼堂・宝塔・鐘楼・経蔵などを建てて、南法華寺の寺号を与えた。その後、眼の信仰が芽生え、眼病に悩む人を救う観世音として知られるようになりました。                 (パンフレットより)

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