長岡京左京北一条三坊二町・三町跡左京第435・436次調査
               

 今回の調査地は向日市森本町戌亥と京都市南区中久世に所在し長岡京で最大規模の離宮遺構を確認されました。前回、勝龍寺城跡(江戸時代)・長岡京跡右京第630次・神足遺跡で紹介しましたが、桓武天皇(737〜806)が延暦三年平城宮から長岡京市、向日市大山崎町にまたがる一帯の地に造営し、同十三年十月二十二日平安京に遷都するまで、784〜794年、約十年間、都として栄えました。

                  現地説明会資料及び説明から抜粋
                                              平成12年2月5日
 今回、大形の掘立柱建物と礎石建物を含む総数13棟の建物郡、遣り水状遺構、井戸などが宅地の内部に備わり、順次作られていったことがわかりました。
調査地は2ヶ所に区切られ435調査は(財)向日市埋蔵文化財センターが担当し、436調査は(財)古代学協会・古代学研究所が担当しました。


・左京第435次調査(財)向日市埋蔵文化財センター
 長岡京の建物跡が9棟確認され、とりわけ大きな建物5と建物12は建設時の工事用足場穴を伴って確認され、同時につくられた可能性が高く、建物の中心軸と柱筋を揃えて3m(10尺)ごとに柱を配列するなど、建物の配置に一体性と企画性を備えています。
建物12は礎石建物で、建物5よりも柱を東西に2本、南北で1本ずつ多く使用しているため、より大きな建物となっています。この柱穴は底が浅く、深さ10cmほどしか残されておらず、内部には人頭大の角礫を2〜3個設置している様子が確認できます。

建物12

 

こうした状況は、底まで1mもあり、内部の柱を粘土で固定しているだけの建物5をはじめとする他の掘立柱建物とは建物の基礎構造自体が全く異なり、上屋の構造に違いがあったことをうかがせます。すなわち建物12の基礎は、盛土によって基壇を形成し、その上面から礎石を設置するための掘り方が設けられ、その内部に根固めとなる栗石をつめる等の構造であったと推定されます。したがって、今回は基壇自体が削平により失われていたものの、根石をつめた掘り方の底面付近がかろうじて残った状況を確認したことになります。

建物5


 建物13は、建物10の東端に南北の軸線を合わせ、柱筋を揃わせる等、建物5や建物10と配置計画が同じであったと思われます。この建物は西端の柱から4本目のところで間仕切りの柱穴が設けられており、部屋を区切っていたようです。

建物13

 

これと同じ平面企画をもちながら桁行3間分(東西の柱3本分)を減らしたものが建物6になります。その東端付近には内部に底の浅い皿状の穴が6基設けられており、甕などを据え置いた痕跡と考えられます。

 

建物7と8は柱筋を揃わせ、両建物間が約2mしか離されない等、一体性が強くいわゆる双堂のような建物であったと思われます。

 

 


 以上の6棟は柱穴の大きさが1辺1m以上ありますが、次ぎの建物9〜11の3棟については、0.4〜0.6mほどで、かなり小さくなります。しかし建物10については、柱間が3m(10尺)で、建物5から9m(30尺)離れた位置に、その南柱列と東西の軸線を合わせてつくられているため、大形建物郡と同じ配置計画にのるようです。なお、前後して建物11の建て替えがあります。建物9は東に庇を設ける南北棟建物で、東二坊大路(南北方向の条坊道路)の東側に設けられた排水用の溝1を埋めたて、条坊道路を廃棄したのち、その路面上につくられています。溝1は、幅4m、深さ約0.5mもありますが、さらに東側に併行する溝2も同じ規模をもちます。溝2は、宅地内に設けられた排水溝で、その北側を確認しました。この溝の西肩付近では、平・丸瓦が南北に連なって出土しており、それらはすぐ西隣から棄てられたことを示しています。両溝は4mの間隔をとりますから、そこに築地などの土塀が設けられていた可能性があります。瓦は土塀の屋根の使われたものでしょう。

 これと同じ性格をもつものとして、溝3があげられます。その北側には土塀をはさんで北一条条間南小路(東西方向の条坊道路)とその排水溝があるものと予想できます。なお、溝3が埋め立てられたのち建物10がつくられたことが重複する足場穴との関係で明らかになっています。


 井戸1は長さ1.8mの板を井籠(せいろう)のように組み合わせた井戸枠を備えたものです。これを設置するために掘られた穴の規模は1辺約3mあります。井戸枠の上部は、使われなくなった段階で抜き取られており、その際に宅地内部で生じた不要な割れた瓦を大量に投げ棄てています。川跡1は、古墳時代からのもので、幅は20m以上、深さは1.5m以上も見込まれます。長岡京期には、当初流れが若干残っていたか、沼状の大きな窪地となっていたとみられ、これを宅地にとりこんで活用しています。その内部へ土器や木製品等を大量に棄てています。しかし、宅地の拡大に伴って川跡は完全に埋め戻されて平地に変わります。

 


【遺構の変遷】 本調査区では、東二坊大路東側溝の造営時をはさむ前後3段階の遺構変遷が明らかになりました。第1段階は建物6,7,8と井戸1がつくられました。内部に大甕を並べておいた建物6と井戸1の存在、及び川跡1に棄てられた供膳用の土器、木器類などから、厨(台所)的な役割をもった施設があったようです。第2段階では東二坊大路等の条坊道路の敷設とともに、溝1〜3がつくられ、道路に沿って宅地の四周が土塀で囲まれ、院構造が成立します。第3段階は土塀を壊して建物5,10,12,13がつくられました。
 以上のように、本調査区からはこの宅地が土塀等で邸宅を明確に囲う前後とそれを解体し、さらには東二坊大路や北一条条間南小路までも廃棄して拡大していった様子を窺い知ることができます。その場合、少なくとも東西3町、南北2町の計6町ないしはそれ以上の宅地を占有していた可能性が想定できます。

・左京第436次調査(財)古代学協会・古代学研究所
 南北方向の溝5・6は長岡京左京北一条三坊二町の東端より約三分の一の所に所在します。溝5・6は、宅地内道路に伴う東西の両溝と考えられ、それぞれの幅は約0.6〜0.8m、深さは約0.1〜0.2m程で、溝間の幅は約4m程です。

 

 溝6の下には、南北に蛇行して折れ曲がる遺(や)り水状の溝7があります。この溝の南側の広がった所では、土器や瓦、炭化物が多量に廃棄され、さらに炭層は下層にも確認できます。溝7は多量に廃棄された土器や瓦などの出土状況から、西側から廃棄された可能性があり、この溝と建物7・8・13の中のいずれかと同時に存在していた可能性が高いものと思われます。

 

 溝5の下には、土壙1・2があります。これは長方形を呈したやや深い土壙で、この土壙の西肩を溝5の西肩が踏襲します。

 


 調査区の東側で想定された東三坊坊間西小路の通過位置で条坊道路に関わる遺構はなく、代わって、建物1・2がほぼ南北に接するように並んで検出されました。それぞれ7間×2間(10尺等間)の身舎(もや)を持つ掘立柱建物の東西棟で、南北方向の柱筋は同一直線上に並びます。これらの建物は、最大2m四方をこえる
掘り方規模を持つものです。両建物には東西南北の四面に庇がつき、それぞれの足場1・2と一部礎石据え付け穴と考えられる痕跡の存在から建物1では東西の側柱部、建物2では東西と南の側柱部分が礎石立ちと考えられます。

建物1

 

建物2


 建物1・2の西側には、建物3・4があり、礎石据え付け穴と思われる痕跡が部分的にあることから、礎石建物と考えられます。建物3の規模は、足場3が明瞭に確認できたため、ほぼ全体が明らかになりました。しかし、建物4では、残りが悪いものの
足場4を確認し、その形態が足場3と同規模であることから、建物4の規模は建物3と同様であると想定しました。この両建物の間に礎石据え付け穴が6基確認でき、両建物の身舎の桁行き柱筋に合うことから一連のものと考えられ、その中央が3.6m(12尺)と広いことから、その部分が門に相当し、この遺構は門を備えた廊であったと考えられます。これらの建物群をよく観察すると、柱筋が東西方向で一線上に並ぶところがあり、建物1・2と建物3・4は同一の計画に基づいて配置されたと考えられます。

建物3


 いままでに出土した遺物はコンテナで30箱程度と量は多くありませんが注目すべき点がいくつかあります。まず1つに
があります。出土地点は建物の柱掘り方や柱抜き取り跡、溝の中から、現在、軒丸瓦8点、軒平瓦1点、平瓦類をコンテナで4箱分出土しています。また「勅旨所」の注文瓦とみられる「旨」字刻印瓦があります。これらの中には、建物1の柱抜き取り穴、溝1・2から各々平城宮式と考えられる瓦が数点あります。

         柱抜き取り穴             

   

 

  したがって、この宅地内の建物には平城京のものが再利用されていたと考えられます。さらに、出土量が少ないことから平安京遷都の際にも改めて利用するため、持ち運ばれたものと思われます。もうひとつは溝7から出土した多量の炭化物と土器についてです。これらの土器は溝7が南側の拡がった所から完形に近い状態で炭化物の中から発見されました。この特徴は9割以上を土師器が占め、須恵器は僅かで、器種についても土師器では杯や皿、椀などの食器類が多量にあり、須恵器の食器がそれらに混じってわずかに出土します。また、食器類ばかりで煮炊き具や貯蔵具の甕や壷といった日常的な土器はいまのところ確認していません。さらに炭化物の中には木片の片方の先端だけが焦げているものも多数見つかり、松明の燃えかすと推定されます。以上のことからこれらは儀式や宴会などに使用され廃棄されたものと考えられます。発見された遺物は、建物に一部瓦を使用したことや、かがり火を焚いて宴会を行うなどの行事をしていたことを裏付けています。

 松明の燃えかす


 


 まとめとして、検出した遺構群配置形態の特徴は、中心部分が内郭構造をとり、中核をなす建物1は後殿、建物2は前殿に相当し、内郭内の主要施設と考えられます後殿は内裏正殿に相当する巨大な建物となります。内郭の建物群はその平面形態から、入母屋乃至寄せ棟を表すのに対し、西の外郭部の建物群は、切り妻屋根となり、極めて対照的なあり方が認められます。大型建物の多くは足場穴を伴い(長岡京でこれまで2例)、桁行・梁行とも10尺等間を基本に計画的に配置されています。中でも建物1・2は長岡京で前例を見ない礎石・掘立柱併用建物と推定できます(平城宮では5例、平安京では1例確認)。条坊区画施設を壊して、建物群を拡張・造営していることから、今回の調査で発見された遺構群は、6町以上の広さをもつ桓武天皇の離宮のひとつであったものと考えられます。

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