お亀石古墳・オンガジ池瓦窯跡


 新堂廃寺現地説明会に付属して現地から約300m離れた羽曳野丘陵の上にある新堂廃寺を造った豪族の墓と考えられるお亀石古墳と、オガンジ池瓦窯の説明が、神戸商船大学名誉教授 北野耕平先生によって行われました。  

お亀石古墳・オンガジ池瓦窯跡 平成11年11月21日



 古墳時代終末期の石棺式石室をもつ典型的な古墳で、直径15m、高さ4m程度の円墳か方墳ではないかと考えられます。

切石を布積みした羨道(石室の墓道)の正面に、直接家形石棺を安置した内部構造で、一般的な横穴式石室のような玄室の構造を省略しています。

 家形石棺の棺蓋に六個の縄掛突起があり、古くから露出していて亀の形に似ているところからこの古墳の名前が生じたのだと思われます。


石身の側面に長方形の開口部が設けられ、それを塞ぐ角形の石蓋が遺存していることも珍しく、古墳を構築したのち遺体をおさめたことがわかります。また羨道部の上石は西方にある狭山池に運ばれたと言われています。

 石棺の石材は二上山西南麓の岩屋の凝灰岩で、この石は法隆寺の基壇にも使用され、羨道の切石には葛城山の巨大な花崗岩を用い、豪族の墳墓であることを示しています。この古墳の重要性は石棺の周囲に飛鳥時代の屋瓦を榔壁状に多数積み重ねていたことで、ほかに類を見ません。さらに瓦が古墳に近い新堂廃寺の百済系屋瓦と共通することから、被葬者が生前寺院の創建に関与した人物であったと想像できます。
 近くの太子町叡福寺の聖徳太子磯長墓が620年代に石切造りの横穴式石室として構築されたとすると、この古墳はそのやや後の640〜650年前後とみられ、同種に内部構造をもつ古墳は河内南部に多く、この頃石川流域に多数移住した百済系渡来氏族との関係からも注目すべき古墳です。またこの辺りは石川蘇我氏の勢力圏であったとも考えられています。
 また新堂廃寺とお亀石古墳にはさまれた丘陵の南斜面に営まれた奈良時代の瓦窯で、現在は池の岸にある。

南に開口した登り窯として、傾斜単空窯の構造をもつ。焚口・燃焼室・焼成室・煙道の部分からなり、長さ5m、幅2m、高さ1.5mあった。床面に大量の瓦片があり、窯壁を瓦で修復していて、奈良前期(白鳳)から後期(天平)にいたる7世紀後半から8世紀の約100年間稼動していたことが判明した。焚口をロストル構造に改修し、煙道を平瓦と丸瓦で被うなど技術的改良のあとが認められました。瓦は新堂廃寺の白鳳、天平期のものと一致するので、開寺活用の屋瓦を供給するために構築したことが判ります。ただ創建時の飛鳥時代にさかのぼる瓦片を認めないので、伽藍屋瓦の維持、葺き替えの料として供給したと考えられます。
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