招提中町遺跡(枚方市東牧野町)

 招提中町遺跡は京阪電車牧野駅から15分ほど東の、枚方台地北西部の標高約20mを測る低位段丘上に立地しています。遺跡としてはは、舟橋遺跡、養父遺跡、宇山遺跡、養父丘遺跡、招提寺内村遺跡、牧野阪遺跡、九頭神遺跡、小倉遺跡など一帯に広がり、南側を流れる穂谷川をはさんで、弥生時代中期の方形周溝墓が40基以上も見つかった交北城の山遺跡や全長107mを測る古墳時代中期の前方後円墳の牧野車塚遺跡もすぐ近くにあります。
この前の飛鳥京跡の現説よりも現場での説明や遺物の展示など満足できるものがありました。



現地説明会資料より抜粋 平成11年7月31日

弥生時代(前期〜中期)2200〜2000前頃

 弥生時代の遺構は、調査区の中央部から北側にかけて多数見つかりました。
 弥生時代前期にさかのぼる遺構は、溝や土抗などがあり、ピットのいくつかもこの時期に掘られたものと考えられます。

土抗や溝の中からは前期(第 I 様式)の特徴を持つ壷、甕、鉢などが多数出土し、形のわかる大きさまで復元することができるものもありました。




弥生時代前期の土器がこの台地上で遺構に伴って出土したのは初めての事です。枚方市域では、これまで交北城の山遺跡に弥生時代中期前半に初めて弥生人が住み着いたと考えられていましたが、今回の土器の出土でスタートは招提中町遺跡から始まったといえるでしょう。
 中期の遺構は、方形周溝墓、土抗墓、円形の竪穴住居跡とピット群です。
 方形周溝墓は、前年度の調査で17基、今回の調査で3基みつかり、計20基にもなります。調査区の南西から北東方向に向かって列状に並んでいます。18号墓は9m四方の正方形で、南東側の溝は見つかりませんでした。19号墓は削平が激しく、溝の深い部分しか残っていませんでしたが、そこからお供えに使った土器が3点出土しました。
いずれも中期前半(第2様式)の特徴を持ち、その内の1点は生駒山の麓、河内で作られた土器でした。



 土抗墓からは打製の短剣と先端が折れた石鏃がみつかりました。短剣はその出土状況から、葬られた人の腰のあたりに装着していたのではないかと思われます。
 墓域に対して当時の住居域は、今回の調査区で見つけることができました。

 竪穴住居は径4mほどの円形をしており、中央部には火を炊いた炉跡が見つかっています。
削平が激しいため、竪穴の壁にあたる部分は残っておらず、壁に添って掘られた溝だけ残っていたため、円形の竪穴住居であることがわかりました。また、炭や灰が入ったピットがいくつか見つかっており、削平された竪穴住居も数棟あったものと考えています。ピット群の多くも柱を建てた痕跡があり、多くの建物が建っていたと思われます。見つかっている柱穴(ピット)や中期前半に作られた2棟の竪穴住居跡から、住居域は墓域の北西方向に広がり、特にその中心は、今回の調査区の西側にあると考えています。また安定した生活を続けていったことは遺跡全体に広がる、ピット群や豊富な出土遺物からもうかがえます。

 多くの土器とともに、実った稲穂を収穫するのに使う石包丁、木を伐採する太型蛤刃石斧の作りかけ(未製品)や、素材の石と割った破片、木の道具を作る石斧(扁平片刃石斧)なども見つかり、なかでも打製石器の素材であるサヌカイトは製品及び原石を割ったクズなども多数みつかり、この地で作っていたことがうかがえます。大型蛤刃石斧を生産する遺跡は各地域の核となる大きなムラだけとみられています。そのことからこの地域は北河内地域において重要な遺跡であることがわかります。
 弥生時代前期から始まったこの集落は、なぜか中期後半には人が住まなくなってしまいます。この地に再び人が住むのは古墳時代初頭になってからです。


 古墳時代(前期) 1750年〜1650年前頃

 古墳時代の遺構は竪穴住居跡が3棟見つかりました。11号竪穴住居跡は、1辺5,5mの正方形、13号竪穴住居跡は、5,5m×6,5mの長方形で、11号竪穴住居が廃絶した後、13号竪穴住居が建てられたことがわかっています。

また12号竪穴住居跡は、1辺6mの正方形で、住居跡から北に伸びる排水溝も見つかっています。住居の中の南東側には物を貯めていた貯蔵穴があり、中から古墳時代初期の土器が見つかりました。


住居の壁に添って三方にベッド状遺構と呼ばれる高い部分も見つかりました。この調査地の西側で南北に並ぶように11棟の方形の竪穴住居が見つかり、多くの住居には南側に面する壁ぎわに貯蔵穴を設け、またベッド状遺構も見つかっており、この地域の共通の竪穴住居の作り方であったと思われます。古墳時代中期、後期からの遺構はかなり少なくなり次ぎの遺構が見つかるのは飛鳥時代にはいってからのことです。



 奈良〜平安時代 1200年〜1100年前頃

 奈良時代から平安時代にかけての遺構は四角形の柱を立てる穴が多数見つかりました。




柱跡の並び方で、5棟の建物を復元することができました。

11号掘立柱建物跡は、3間×3間の総柱建物で、倉庫のような建物が復元できます。柱そのものの太さは、40〜50cmもあります。12、13掘立柱建物跡は、軒先を並べて建っていました。柱跡に囲まれた建物はいずれも20Fと同じ大きさですが、妻側の柱の建てかたが違っています。14号掘立柱建物跡は3間×5間、37Fとこれまでの調査の中では一番大きな建物跡です。そして14号の建物跡をつぶして作られた土抗から9世紀初め頃の土器が見つかり、その中に混じって、当時高級品だった緑釉陶器が見つかりました。奈良時代、当遺跡のすぐ西側には、白鳳時代創建の九頭神廃寺が七堂伽藍を並べていました。この寺を建立した地元の有力氏族がいたと思われます。平安時代の初め頃の建物が数棟見つかっています。その当時、禁野として貴族の狩猟地にされていたこの辺りでは、一般の人々が住むところではなかったのでしょう。
 中世よりのちは住む場所から畑や水田などの耕作地として開墾されていったのでしょう。
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