発掘調査の報告 下図はディスクトップに保存すると大きいサイズで見ることができます
第二期の遺構について
今回の調査で最も注目すべき第二期の遺構について詳しく見てみます。
調査区の東半部と一部西へ突出部分の認められた地山高まりが、建物基壇と判断する根拠になったのは、
*下記の写真参考
それらの高まりが本来、西から東に向かって低くなっていくはずの自然地形に反して、西が低く、東が高く人為的に削り残されてあったからです。さらにその高まりが、新堂廃寺の伽藍の中軸線(北から東に17°20'傾く)に沿うように南北に伸び、調査区の北部でそれが終わっていたことから、その建物の種類が回廊や門ではなく、「東方建物」と呼ぶべきものであると判断されました。また調査区の南側で一部高まりに直交する方向に突出部分が見つかっていますが、その位置から考えて、出入り口である階段跡と推定できます。
また、そのすぐ西側に溝が平行して見つかっていますが、階段跡である突出部のすぐ北側から始まり、地山の高まりの途切れた所から約1.4mさらに北に延びて終わっていることから、この建物に付随していた雨落ち溝であることが推測されます。
この溝はさらに東側に折れ曲がって延びていた可能性もありますが、府営住宅造成時に東側が大きくつぶされていたため確認できませんでした。また、この雨落ち溝と基壇である地山の高まりの間で見つかったピット列は基壇化粧石の抜き取り穴であることが推測できます。
以上のことから、寺域の東側にも建物があったことが判明したのですが、次ぎにそれが伽藍全体の中でどのような位置になるのかは、1960年に見つかった西方建物は白鳳時代に建てられたもので、南北31.36m東西16.5mの大きさの建物東辺中央に間口3.5m、奥行き3.2mの突出部のついていたものが、天平時代に南北27.6m、東西16.42mの大きさに縮小し、突出部の大きさを間口5.6m、奥行き3.2mに大きく建て替えたものと考えられています。そこで、今回見つかった東方建物が、西方建物と左右対称と考えると西辺が東側に約0.7mずれ、北西角が再建前より約2.2m、再建後より約1.66m短いことになります。しかし、出土した遺物の年代と、ほぼ対称的な位置関係であることを考え合わせると、今回の調査で見つかった建物が、西方建物とほぼ同じ時期に建てられた東方建物の北西部であると言えるでしょう。
このことから、飛鳥時代創建時には、北から南に向かって講堂・金堂・塔・中門と一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったものが、白鳳時代(7世紀後半)に再建された時にはそれらに加えて金堂・塔の東西に各1棟ずつ建物が配列されるという我が国で前例のない『新堂廃寺式』とも呼ぶべき伽藍配置であったことが判明しました。
なぜ東西の大型建物を建てる必要があったのか、またどのように使用されたのか。
そもそも寺院は、金堂には本尊を祭り、塔には仏舎利を納め、講堂で議論などをする場所がもうけられていました。また僧侶達が礼拝、供養する場所が必要になります。そこで山田寺、飛鳥寺、法隆寺西院などを見ると、中門が普通3間×2間のものが、3間×3間、3間×4間と不規則であり、また大きいことがわかります。その理由として中門から僧侶たちが東西に並んで礼拝、供養を行ったと考えられ、法隆寺東院では、礼拝のために礼堂(中門)を拡張しています。また東大寺法華堂は左の堂から礼拝のために右の部分を付け加え、寄棟入母屋造りとしています。いかに礼拝、供養が大切かはこれで明らかですが、新堂廃寺は四天王寺式伽藍から東西大型建物を付け加えたかは、四天王寺式では中門から同時に金堂・塔を礼拝できない配置であり、同時にするためには横に施設を造る必要があったのではないでしょうか。このように特殊な伽藍配置が新しく見つかったことで、これからは新堂廃寺式と呼ぶことになるかも知れません。
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