神戸市 住吉宮町遺跡

遺跡概略

 当遺跡は、六甲山麓から流れる住吉川と石屋川から洪水などで運び込まれた土砂が積もってできたゆるやかな扇状地(標高20〜30m)に位置する、JR線〜国道2号線間を中心に東西0.7kmの範囲と、考えられています。国道2号線から南へ少し下った所で急に低くなっていることから、海と考えられ、南限と思われます。

 これまで、31回の発掘調査が行われた結果、弥生時代中期(約2000年前頃)の竪穴住居跡、水田、方形周溝墓などが、発見され、古墳時代(約1800〜1400年前頃)には、多くの古墳、その周辺には竪穴住居・水田が確認されています。奈良時代、平安時代、室町時代と、それぞれの遺構が見つかっています。

そして、奈良時代(約1200年前頃)には、掘建て柱建物跡、柵と思われる柱穴のならびが確認され、自然流路の護岸のための杭も出土しています。地層で確認するところでは、人の生活している地面に何回もの洪水がくりかえしおそい、埋まったり、削られたりと、複雑に重なりあっていったことがわかります。

また、井戸も数多く検出されていますが、中でも、2号線に沿った発掘現場(平成9年1月25日現地説明会)では、長さ約120cm,幅約30〜60cm、厚さ約4cmの木板を四角に組んだ井戸枠が、


上半分が南に倒れこんだ状態で出土しました。井戸の上半分全体がかなり強い力で押し出されて、上半分と底部とでは2mほどずれていました。井戸の周りの地盤もいっしょに動くような力として、地すべりと考えられます。当遺跡、ならびに付近の遺跡では、液状化現象をうかがわせる噴砂(地震などにより地面に亀裂が発生し、地下水が砂といっしょに噴き上がる現象)が認められるなど、地震が原因と思われる、興味深い状態で、検出されています。奈良時代以降,大規模な地震としては、1995年の地震以外、慶長の大地震(伏見地震 1596年)しか、知られていません。
井戸からの遺物として、漆器、墨書土器が出ました。また,海に近いことから、蛸壺や土錘(どすい−網などにつける土器製のおもり)が,数多く見つかり、当時の生活が感じられます。付近には,多くの古墳が点在しているためか、埴輪片も頻繁に出土しています。また荒ぶる神をなごめるために、ミニチュアの土器や、鞍や手綱をあらわした土馬、流路からは、人形代(ひとかたしろ ― 人の形をした木片、土器)などが出土しています。又、平安時代の瓦、須恵器(すえき)、土器、硯の破片など、中世・近世まで自然災害を受けながら、人々が力強く生活を営んできたことが伺えます。   


住吉宮町遺跡現地説明会  平成11年1月24日

 今回の調査地は、JR住吉駅から南に下った国道2号線に面し、住吉神社の東側にあたります。以前にも、地震で横滑りしたと思われる奈良時代の井戸の現地説明会がこの地点から、約200m西の2号線沿いの南側で行われています。今回、数多くの古墳が確認されたということで、たずねてみました。

 今回の調査で、古墳時代後期(1400〜1500年前)の方墳8基を始めとして、横穴式石室1基、墳丘を持たない石棺7基、その他に溝、落ち込みなどの遺構が見つかりました。古墳はいずれも、いまの地面から約1m下で見つかりましたが、それ以降の洪水や水田造成工事などによって、上部が削られていました。しかし下部が残っていたために、良好な状態で確認することができました。


古 墳

〇1号墳 

今回の調査でもっとも大きな古墳で、もっとも古い、2段築成の方墳。墳丘は、一辺が14m、下段の高さ70cm、上段残存高70cm、その周りには一辺が17,5m、墳丘裾から幅2m、深さ70cmの周濠が巡っていました。墳丘の斜面には、直径10〜40cmの葺石(ふきいし)が敷き詰められていました。下段と上段との境目には、幅60cmの平らな部分が4辺にあり、円筒埴輪が立てられていました。後の時代に上辺部が削られているため、死者を葬った棺などは見つかりませんでしたが、上段斜面にも埴輪の破片が転落しているため、頂上にも円筒埴輪が並べ立てていたと思われます。周濠の中には、死者に対する祭りの跡が見つかりました。西側からは、須恵器や土師器の他に、滑石という石で作られた、紡錘車(繊維に縒りをかけて糸にし、これを巻き取る道具を紡錘、紡輪といい,糸を巻き取る際に軸の回転に惰性を与えるはずみ車が紡錘車、通常石製もしくは土製で、直径4〜5cmの扁平な円形で、中心に軸を通す孔が開く)という製品が出土しています。

北側では、  馬の歯が1頭分見つかっています。推定年齢は3〜4歳の健康な馬であったと思われます。おそらく殉殺(葬られた人の道ずれとしてささげる)されたものと思われ,古墳にささげる習慣は、熊本県を中心とした九州地方、大阪の北河内周辺、長野県伊那谷周辺に多く見られますが、兵庫県内においては初めてのことです。出土した土器から、5世紀後半に造られたと考えられます。
 

出土遺物

            

〇2号墳 墳丘の1辺が10m、残存高50cmを測る方墳、1辺が12m、墳丘裾から幅1m、深さ40cmの周濠に囲まれていました。葺石はなく,埴輪も見つかりませんでしたが、周濠の南東隅付近からわ須恵器の壷、南西側から須恵器の蓋杯(つきぶた)、高坏(たかつき)が見つかりました。出土した土器から5世紀後半に造られたと思われます。
〇3号墳  

墳丘の1辺が11.5m、残存高1.1mを測る方墳、1辺が12.5m,墳丘裾から幅1.3m、深さ50cmの周濠にかこまれ、変則的な2段築成をみせ、北半分は一段、南半分は二段の墳丘を持っています。埴輪はなく,葺石は四隅と南半分の斜面の上段にのみ施されています。墳頂には、北側に木棺(長さ2.2m〜×幅60cm×深さ15cm)、南側に河原石組みの石棺(長さ2.2m×幅40cm×深さ27cm)が、東西方向に向けて並んで据えられて、木棺の北隣には鉄刀が一振り、棺と平行に埋納されていました。周濠内には、南、北、西辺のそれぞれで須恵器、土師器が出土し、南辺では紡錘車が出土しています。出土土器から、5世紀末〜6世紀初頭に造られたと考えられます。

          

〇4号墳 墳丘の東西が11m、南北が4m以上、残存高80cmを測る方墳、1辺が12m、墳丘裾から幅1.5m、深さ95cmの周濠に囲まれていました。墳丘の頂部には、約2.5mおきに円筒埴輪が立てられていました。南側は調査区外で棺などの埋葬施設は確認できませんでした。出土土器から、6世紀前半に造られたと考えられます。

 以下、5号墳、6号墳、7号墳、8号墳は、いずれも後世の洪水、耕作などによって、墳丘が完全に削られて、周濠のみで確認されました。出土土器から、5・6号墳は6世紀前半、7・8号墳は6世紀終わり頃に造られたものと思われます。

〇横穴式石室 (日本では、朝鮮半島の影響をうけ、5世紀に九州、近畿地方に導入され6世紀には全国各地に波及した)

 ほぼ磁北方向(N10°W)に向いて造られており、中世の土抗、近現代の溝などによって削られ、墳丘はそのほとんどが、また石室の西半分も失われていました。残っていたのは、玄室の東壁と、玄室に取り付く羨道(せんどう)の東壁の一部のみでした。残ってた部分の規模は、玄室の長さ1.8m高さ60cm、羨道は長さ90cm高さ40cmを測ります。また玄室の壁際に、6世紀中頃のものと考えられる須恵器の提瓶(ていへい−壷型の容器)が2個置かれていました。


 今回見つかった古墳の築造された順序は、1号墳が最も古く、西に向かうにしたがって新しくなっていくようです。葺石や円筒埴輪、二段築成といった要素を持つ古墳が造られ、それを中心に連続的に古墳が築かれ、さらに外側に石棺郡を配置して区別していた様子がうかがえます。これは階級差にのっとった配置であろうと思われます。今回の調査地を中心に、半径300mほどの範囲に、数多くの古墳が密集して造られていることが想像され、これだけ大規模な古墳郡を営むには一つだけのムラ(生活集団)では、まかないきれない規模であったと思われます。それは住吉宮町遺跡の周辺に展開した複数のムラの共同の古墳祭祀の場であったかもしれません。
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