万葉余聞 第十四回

何故か心ならずもこの連載が少し間が空きすぎてしまったようだ。
現在のところ取り急ぎあちらこちらの資料を漁っているところである。
そうすることで連載前の「万葉余聞」の心の状態に戻すべくもっか
努力中である。

私事でになるけれど、この世界(万葉時代)に逍遥して実は数十年になるが、
今もって何故?どうして?がつきまとう。その心境を敢えていうのなら、中世
の仏教哲学者・親鸞の言行録に「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は
一定のすみかぞかし」というところかな、でも少し大袈裟かな?
さて今回は少し間が空いたので万葉時代についてかいつまんで復習しておこう。

六世紀中葉、欽明朝治世に仏教が伝来する。その間のことは後雑で長くなるので省
くことにする。従ってその経過(いきさつ)はともかくこの欽明にスポットをあてて
みる。父は継体(26代)で母は手白香皇后(てしらかのきさき)である。それぞれ
腹違いの兄達、安閑(27代)・宣代(28代)と続き欽明(29代)に至る。しかし
書紀の安閑・宣代の扱いはごく簡単な記述しかなく実在したかどうかおおいに疑問が
残る。先に進もう。皇后として先代宣代の皇女、石姫を立てた。この姫との間に
訳語田淳中倉太珠敷尊(おさたのぬなくろのふとたましきのみこと)が生まれる。後の
敏達(30代)である。次に妃・堅塩媛(きたしひめ)蘇我稲目の娘である。欽明との
間に大兄皇子、後の用明(31代)を生み次に豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめみこと)
つまり後の推古(33代)を生む。又、妃として堅塩媛の同母妹、小姉君(おあねぎみ)は
泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)を生む。この人が用明の皇后となり
聖徳太子の母である。又、小姉君は泊瀬部皇子、後の崇峻(32代)を生む。
この崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺される。歴代天皇の中で後にも先にも暗殺が書紀に明記
されている唯一この天皇だけである。
これで理解してもらえるだろうか?欽明朝にスポットを当ててみて蘇我氏が実力と共に
いかに皇室に深く食い込んでいるか解るはずである。
崇峻を暗殺した馬子の妹達・堅塩媛・小姉君は前記の如く皇室とは切っても切れない縁といえる。
又、次に続く田村皇子、後の舒明(34代)も妃に馬子の娘・法提郎女(ほていのいろつめ)
を娶っている。
日本における仏教伝来は他の仏教圏の国と根本的な違いがある。それは仏教を国策とした
ことだと考えられるのである。その仏教思想が徐々にこなれ成熟度が増すにつれて一般民衆も
理念を理解する事ではなく、唯、有り難いこと、又、救われようと手を合わせたのに違いない。
又、それらと同時的に日本国家の成立期にあたり外国から、それは中国からと言い換えても
良いが、種々の諸制度を導入し更に我が国に合うサイズに寸法直しをやり、ある意味において
混乱を極めた時代出会ったといえるのではないだろうか?
又、それらに感化され自我と他者との確立という人間本来の希求するところの心と物との
葛藤も見逃せないだろう。

本題に戻る。万葉に収められている四五一六首のうち作者未詳(よみびとしらず)のものが
二三○○首もある。実に約半数にのぼる。更に作者名が判明していてもその人物が何を
していた人なのか、どのような役職を有していたのか、つまり歴史的位置づけが全く出来ず
唯名前のみが先行して後にも先にも一度きりという人物や数回あるけれど万葉の世界から
消えてしまうという人物もいる。従って人物の相関関係を類推するのに、前後を繋げて想像力を
膨らませるという作業が行き止まってしまうのである。

愚痴を言っても始まらない。暑さもまだまだ続くだろうこの八月。しかし千三百年前の
万葉の時代の夏の暑さはどんなだっただろう。
大伴家持が自分の部下の夏痩せに鰻を食べろと進める歌で今回は締めくくるとしよう。

青山 恵

石麻呂に 我物申す 夏痩せに

 よしといふものそ 鰻とり食せ

  大伴家持・巻十六-三八五三

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