万 葉 余 聞 

文・・・青山 恵



目 次

万葉余聞 一
万葉余聞 二
万葉余聞 三
万葉余聞 四
万葉余聞 五
 

お読みいただいた記念に感想をメール下されば幸いです




 
 

万葉余聞 一

 余りにも膨大で捕らえ処がないというのが実感であるが、
万葉集そのものは、我々日本人のもつ最初の詩集であると
 いうことに変わりはないし、古事記、日本書紀、又、全国の風土記
(現存するのは五カ国のみ、播磨、出雲、肥前、豊後、常陸)
とともに、七世紀後半の壬申の乱を背景にして表されてきたものと
考えられる。又、この歌集が第三十四代舒明天皇一族三代の歌集と
いわれているのも、決して過言ではないだろう。
 さて、この七世紀という時代性を激動の世紀と位置づける、
我が国日本の「この時期を生きた人々」について垣間みてみよう。
しかし、先ずこの歌集の全体像を知る為にも少し解説する必要があるだろう。

 万葉第一歌は、第二十一代雄略天皇の春の恋歌で始まる。
実はこれには編集者の何か深い理由があると思われる。
何故なら七世紀の舒明天皇の時代ではなく、遥かに時代を
遡って五世紀の大王であるからである。一説には、雄略は大和文明の
創始者と位置づけられているらしいこと。又、皇室の祖先である天照大神を
伊勢に移し、伊勢神宮を創建したと推定されていることなどである。
それはともかく、第二歌に舒明の国見の歌が挙げられているのは、
すんなりと納得がいくので、これは余程この雄略という五世紀の
大王が、この当時の皇族をはじめ文武百官ならびに、その他の人々
にとっては忘れることのできない重要人物であったのだろう。
歌集のしんがりを努めているのが、実に第一歌から数えて
四五一六首目の大伴家持の歌である。

 時は天平宝字三年元旦(七五九年)、因幡国庁での新年祝賀式で
朗吟されたもので、この歌集は終わるのではなく切れるのである。
何故なら、このとき家持四十二歳、彼はその後二十六年も生きているのである。
万葉集の一割を越える歌を残した歌人が、六十八歳で亡くなるまで
作歌していないはずはない。
これはミステリーである。

    新春  大伴家持

あたらしき 年のはじめの 初春の

  けふふるゆきの いや重け吉事

             四五一六
 


万葉余聞 二

 歴代天皇には、諡名(おくりな)として和風諡号と漢風諡号がある。

前者の方は、有史以来その伝承に基づいてほぼ出身地などを指すものと考えられる。
又、後者の方はそれに後追いするかたちで成立したもので第五十代桓武天皇の
治政下で 官僚として活躍した淡海三船(おうみのみふね)が桓武の勅命により、
主作業に携わったと 記録されている。三船については後にその系譜を説明する
が、唯主作業は想像以上に難渋 したのではないだろうか、何故なら現在を生きる
我々にとって歴代天皇の漢風名が適材適所の ように全く自然に理解しているが、
何といっても古代史最大の事変であった壬申の乱のあとわずか百年余りしか経過
しておらず、まだまだ生々しい世相ではなかったかと思われるである。
それは調度、明治維新から現在に至るまでの時間的経過に似かよっていると
思うのである。
その根拠に我々は未だに維新時の事象や人物の評価などその全般に
渡って抜け切れておらず、 従ってリアルタイムともいえるのである。

 さて本題にもどるが、全てを網羅するのはとても無理なので特徴のある部分に
スポットをあてて考えてみよう。
 歴代天皇のなかで神の名のつく漢風名を持つのは三人しか存在しない。
ところがそれぞれに大変示唆に富んでいる。
先ず初代、神武天皇の和風名は神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコノ
スメラミコト)と読む。これは、大和の磐余の地に何らかの関係があったと考えられる。
この際神武が実在か否かは問わないでおくことにする。
次は第十代崇神天皇である。和風名は、御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリ
ヒコイニエノスメラミコト)と読む。又、日本書紀・崇神紀・十二年秋
九月十五日条に御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と追諡されており、
始めて国を治めた天皇と位置づけられているのである。 実際にこの崇神に至っては、
戦後の史学界における実在する最初の王(オオキミ)としてほぼ定説化
されているのである。
一般的には三輪王朝の創始者と考えられており、 これが三世紀末にあたるところから、
連続性はともかく邪馬台国の女王卑弥呼に続くものと思われるのである。
さらに今ひとつ重要なことがある。それは第七代孝霊天皇の皇女で
倭遮遮日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に関してである。
 この姫は、崇神の姑(オバ)にあたる。この姫が三輪山の大物主神の妻となる。
ところが神はいつも昼には姿をみせず、夜だけ姫に逢いにくる。不審に思った姫は、
一度でいいから明るいうちにそのお姿をみたいと願う。神はもっともなことと納得し、
あすの朝そなたの櫛箱に入っていよう。ただし私の姿をみて決して
驚かないようにと念をおす。やがて朝になり櫛箱をあけてみるとうるわしい
小蛇(こおろち)が入っていた。姫は思わず驚いて叫んでしまった。
神はたちまち人のすがたになり、
「私に恥をかかせた。今度は私がそなたに恥をかかせよう。」といって、
三輪山に帰ってしまった。 姫は悔い、全身の力が抜けてどすんと座り込んだ。
この時箸で陰部(ほと)を撞いて死んでしまった。それで大市(おおち)に葬った。
この墓を箸墓(はしのはか)という。
「昼は人が造り、夜は神が造る。」と崇神紀にある。
 この箸墓古墳が、現在のところ最も古いとされている型のもので、卑弥呼の墳墓では
ないかと考えられている。これらの伝承が、崇神紀に記載されているということが
重要なのである。
 
次に第十五代・応神天皇であるが、和風名は誉田天皇(ホムタノスメラミコト)と読み、
さらにもうひとつ名前が与えられている。胎中天皇という。その理由は母の神功皇后が
朝鮮征伐にでかけるときに、既にお腹の中にあったとされているからである。
この応神が崇神の三輪王朝にかわる河内王朝の創始者だと考えられているのである。
淡海三船について、その系譜を辿ると万葉女流歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)に行きつく。
 
 


万葉余聞 三

 短歌というものが長歌の反歌から独立して発達してきたもので、かなり短期間のうちに
その成熟度を速めてしまったといえる。一方長歌の発達は起源のしれない程はるかに
長い課程を経ている。その原型は祝司や俗間の民謡など純粋な神への帰依であり、
それ自体が悠久のリズムを刻んできたのである。もしかするとその旋律は古代日本人の
方言及び生活習慣などを考えるうえで大きなヒントが隠されているのかも知れない。
しかし、その叙事詩としての長歌は残念ながら七世紀末の壬申の乱のころを境にして急速に
滅びてゆくのである。その最大の理由として、当時の大和朝廷にとって何よりも先進外来文化
の導入を急ぐこと。つまり大陸・唐の法治制度である、律と令の法整備を急ぐあまりゆったりと
培われてきた縄文から弥生にかけての日本独自の伝統文化をある種蔑ろにしてしまった
といえるのではないだろうか。
さて本題の歌論に戻ろう。

 歌体としての長歌は五・七の二句を連ねてゆき五・七・七で結ぶ長短自由のものである。
短歌の方は五・七・五・七・七で現在に至っても変わりなく一般に三十一文字(みそひともじ)
の世界といわれている。なんといっても万葉歌は天皇御製から名もない一般庶民のものまで
網羅し集録されていることで大きな文化遺産といえるのである。万葉歌全体の約半分にあたる
二三○○首余りが作者未詳ということもその証拠となろう。これが後の平安の時代となり平仮名・
片仮名の発明により短歌が和歌として貴族の生活の上で重要な部分を占めると同時に作歌技巧に
さらに磨きがかかることになるのだが、唯、残念なのは一般庶民のものではなかったことだろう。
次に表記の方法であるが、万葉仮名といわれるもので二つの方法がとられている。
*訓読法 漢字の意味と日本語とを結びつけている方法
  例  春・夏(はる・なつ)天・地(あめ・つち)とかの訓読みの法
*音読法 意味に関係なく漢字の音を借りて日本語にあてはめてゆく方法
  例  余能奈可(よのなか)阿米都知(あめつち)など
又、歌の分類としては、雑歌・相聞歌・挽歌の三つが最も大きな分類となる。
ここで万葉歌の原文を引いてみることにするが、万葉仮名というのは全て漢字表記であるから
一般にはとてもうのみにして馴染めるものではない。

  太宰少弐小野老朝臣歌一首

 青丹吉寧楽乃京師者咲花乃薫如今盛有

      あおによし ならの京師は 咲く花の

        にほふがごとく いまさかりなり

              小野老・巻三ー三二八

万葉女流歌人として名高い額田王(ぬかたのおおきみ)の長歌と反歌(対句)を取り上げてみる。

     三輪山に別れる

   うま酒 三輪の山 青によし ならの山の 山のまに

   い隠るままで 道のくま いつもるまでに つばらにも

   見つつゆかむを しばしばも みさけむ山を 心なく

   雲の かくさふべしや   十七

   三輪山を しかも隠すか くもだにも

     心あらなも かくさふべしや

               十八

 歴史的背景などについては後述するが、まず何度もくちづさんで欲しい。そうすることにより
自然とその旋律が身近なものになりやがて自分のものになるはづである。従って文法的に何を受けての
枕詞であるかとか助動詞だのいや接頭語だのと難しく考えても、ちっとも楽しくないのである。
学問としてとらえるのではなく、万葉人がどのような時苦しみ悲しんだか又、喜びの心をどのように
表現したかが重要なのであり、今のように歌に著作権があるはずもなくほとんどの場合口承による
ものなのである。つまり古伝によるものを口から口へ、人から人へ、口伝えに誦み馴らし語呂のよい
ひとつの完成された歌へと成長するのである。それらを学問と教養を身につけた山上憶良や大伴家持
のようなごく限られた知識人達によって漢字表記されて収録されたものなのである。

歴史的背景

 六六七年春三月、中大兄皇子は飛鳥を離れて都を近江の大津に遷都する。宮廷が奈良山を越え北に
移ることは当時の人々にとっては想像を絶することだった。山背・近江は「天離る鄙」であった。
全宮廷をあげて新京に引っ越しの途中、三輪山に別れを惜しむ額田王のこの歌は古来多くの人々に
愛されてきたものである。三輪山は大和の土地の神である大物主神の神体そのものである。飛鳥の
人々にとっては、心の依りどころだった。その神聖な山を雲が隠そうとする、もっと情があっても
いいのに何故?と歌うのである。
 その翌年の正月(六六七年)中大兄は新京ではじめて即位の礼をあげる。第三十八代・天智天皇
である。大化改新で政権を治めてから実に二十三年目のことである。即位をのばしていたのは色々
と考えられるが、何よりも切迫した極東の情勢があった。
これは次回にゆずることにしよう。
 
 
 



万葉余聞 四

 大化の改新(六四五年)で、中臣鎌足らの協力を得て仏教興隆策をとる開明派の蘇我氏を滅亡に導き
政権を治めてから二十三年目、ようやくにしてというか六六八年正月琵琶湖畔の新宮殿の近江京で
はじめて即位の礼をあげた。すでに五十四歳になっていた。第三十八代・天智天皇である。
即位がのびのびになっていた理由については色々と考えられるが、先ず極東の緊迫した情勢を述べ
なければならないだろう。
 大和朝廷成立以前から古代日本にとって最重要事であったのは何よりも朝鮮半島の政治的安定を
恒久化すること。とりわけ百済は半島での安定剤の役割をはたしていたといえる。
この時期よりほんの五十年程前に隋帝國が内部崩壊している。(六一六年)隋といえば用明天皇の
皇子、聖徳太子が推古女帝(用明の妹)の補佐役(一般に摂政と書かれることが多いが、この時期
に摂政という語はない)として煬帝(ようだい)に外交文書を送り、煬帝を激怒させたことは
よく知られている。
「日、出づるところの天子、書を、日没するところの天子にいたす。」というものであった。
当時、世界最高の文化レベルを誇っていた隋の天子に「書を、日没するところの天子にいたす。」
とは・・・・・怒って当然か。
 本題にもどろう。六六○年百済は、唐・新羅連合軍の襲撃を受けて大和朝廷に救援を求めてくる。
朝廷は激論を重ねた末、その翌年、斉明女帝以下、皇族と軍団とが難波津から軍船にのりこみ、
九州に移動する。この外征の切迫した雰囲気をみごとに表現した額田王の歌が残されている。

   にぎ田津に 舟のりせむと 月待てば

      汐もかなひぬ 今はこぎいでな

               巻 一ー八

にぎ田津とは、今の松山から三津浜あたりの港だと考えられている。極度に緊張し、誰もが押し黙り、
唯々出発の命令を待っている。
汐もよくなった、今だ!今こぎだそう出撃!
斉明女帝のために額田王が代作したと伝えられるが・・・・・。
その年の七月、斉明女帝は博多で急死する。六十八歳であった。
日本書紀・斉明紀・秋七月二十四日条
 天皇は朝倉宮で崩御された。八月一日皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ帰って
磐瀬宮につかれた。この宵朝倉山の上に鬼があらわれ大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
人々は皆怪しんだ。と書記は記す。
 中大兄以下、朝廷はその年のうちに大和にもどる。ところが百済のみではなく今度は北鮮の高句麗が
救援を求めてくる。大唐帝国が南下政策をとるごとに半島の各勢力が激しく動揺する。朝廷の誰もが、
何も言わなくても解っている。次は日本だと。
 六六三年三月、中大兄はこの緊急事態に二万七千の大軍を送り南鮮の白村江(はくすすきの)で
唐の強大な水軍と決戦することになる。詳しいことは省くが、この決戦で日本は壊滅的な打撃を受け
惨敗すると同時に百済は滅亡する。朝廷は慌てて博多に水城(みずき)・堤防を築き、防人(さきもり)
の制度を敷き国防の任に当たらせている。しかしその四年後の六六八年高句麗も滅亡する。
思えば、母、斉明の死から七年も経っていた。中大兄は即位の礼どころの問題ではなかったのである。
しかし前述のごとく即位して数カ月後、宮廷をあげて近江の蒲生野ではじめての野宴を開く、
時は六六八年五月五日のことである。

この歌の背景

 額田王は、天智(中大兄)の弟、大海人皇子(後の天武天皇)とはじめ恋愛関係にあり、

二人の間に十市皇女をもうけたが、後に天智の後宮に入った。昔、恋人同志だったが
野宴で久し振りに逢ってみると、又、恋がしたくなった。 額田王は、そんなに袖を振るのは
やめて下さい野守(番兵)が見ていますよ。 大海人は、人妻になってしまったあなたでも、
見ると又恋がしたくなってくる。男は鹿狩り、女は薬草摘み、そして夜饗宴が始まる。

   天皇蒲生野に遊猟する時、額田王の作る歌

   あかねさす 紫野行き 標野行き

     野守は見ずや 君が袖振る

             巻 一ーニ○

   皇太子の答ふる御歌、明日香宮に天の下治めたまふ

   紫のにほへる妹を 憎くあらば

       人妻ゆへに 我恋ひめやも

             巻 一ー二一

 紀に曰く「天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に遊猟す。

 時に皇太子・諸王・内臣または群臣悉従ふ」といふ。
 
 
 



万葉余聞 五

 海石榴市(つばきち)、三輪山の西南のふもと桜井市金屋、ここは現在でも 古代の面影を
とどめている。万葉の時代より以前から水陸交通の要地として 栄えたところで、
その要素として山の辺の道の南端にあたること、又、初瀬谷 からの出口、 そしてすぐ南を流れる
初瀬川は難波方面から来航する船のつく港町 であった。加えて三輪山という山全体が ご神体という
誠に有り難い土地柄なのである。四方八方に道が通じ人々が繁雑に行き来する。そして市が開かれる。
これがまさに八十の衢というところなのであり、このあたり全体が海石榴市跡として指定されている。
古代から春と秋の特定の祭の日には多くの男女が寄り集まり恋の歌をかけ合って相手を選ぶ
男女雑婚が許されたのであるが、この行事は単なる性の解放ということではなく呪術的な意味から、
生産の豊かなことを願ったり、又健康を願うという農村の象徴的な行事であった。これがいわゆる
歌垣なのである。今と違って当時の婚姻の制度が、かなり違っているのでその説明が必要だろうと
思われる。

 
 現在は「嫁入り婚」が普通であるが、古代では「妻問い婚」なのである。
男が女の名を聞く、それに答えて名をなのれば求婚に応じたことになる。又、男が女の家の戸口に
立って女を呼ぶ「さ結婚・さよばい」は、「さ」は助動詞で「よばい」は呼びあう又は呼ぶからきており、
女の寝所に忍び込み、その思いを遂げようとする「夜這い」では決してないのである。又、結婚してからも
男は「妻問う」のであり、朝になると帰ってしまうのである。子どもができれば母が育て、名前も母がつける。
従って子の養育権は母にその全てがあったと 思われる。とにかくこの時代を詳しくみてみると兄妹婚が
多いのであるがそれは子どもが母のもとで育ったため、母が違えば他人同然であり、平気で異母妹を
めとったのである。これは明らかに母系制社会の名残りであろう。又、つまるところ「妻問い」とは
「言魂・ことだま」と密接な関係にあるのではないだろうか、男と女の始めの出逢いは現在においても
「始めに言葉ありき」つまりコミニュケーションがなければうまくいかないだろうし、ましてや古代においては
言葉には魂が宿っていると固く信じられていたからである。

 さて本題の歌になるが、何時もいうように難しく考えないで欲しい。
歌意が全てわからなくともよいのである。何となくわかるのがベストである。
 

言霊の 八十の衢に 夕占問う 
   占正に告る 妹はあひ寄らむ
      作者未詳・巻十一 二五○六

海石榴市の 八十の衢に 立ち平し
   結びし紐を 解かまく惜しも 
      作者未詳・巻十二 二九五一

 紫は 灰指すものそ 海石榴市の
   八十の衢に 逢へる児や誰
      作者未詳・巻十二 三一○一

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど
   路行き人を 誰と知りてか
      作者未詳・巻十二 三一○二
 

これら四歌は全て作者不明ではあるが今風にいえば流行歌とでもいえば良いだろう。
誰もが口づさむ歌だったと思う。時に恋する時に。

一、やそのちまたで夕方、占いをしてみると、良いお告げが出た。
  俺はついているぞ、あの娘は俺に身も心も寄り添ってくれるんだと。

二、二番目のは少し難解である。上句と下句とがどうも連関しないのである。
  つばきちのやそのちまたで立ち尽くしている私だけれど、先程素晴らしい男が結 
  んでくれた着物の腰紐を今となっては解くのが惜しい。

三、紫草の根に椿の灰を入れると紫の良い色が出る。つまり媒染剤には椿の灰を用いるとい
  うことがわかる貴重な歌である。又、椿を海石榴市にかけているところも心憎いが、
  そのつばきちで逢った素晴らしい娘よ、名前を教えてよという。先述したように名前をたずねる
ことに求婚の意があった。

四、母が私を呼ぶ名を教えてあげたいのだけれど、つばきちのやそのちまたで先程逢った
  ばかりのあなたをどこの誰とも知りませんので。と先程の男は染色の知識まで
  織り込んで頑張ってみたけれどみごとにふられてしまった。
 最後に海石榴市については日本書紀・武烈紀・十一年八月条に下記のように記す。
武烈が即位するまえの皇太子のときのこと物部鹿鹿日大連の娘・影媛(絶世の美女)
を見染めて仲人をたてて逢う約束を取り付けようとするが乱暴者で知られる太子の申し出に
影媛は恐れをなす。それというのも、すでに情を交わした男がいたのである。

大臣平群真鳥臣の子で鮪という。困り果てて海石榴市でお待ちしますと申し伝えた。
約束通りの場所で歌垣の人の中に立っていると太子がやってきて影媛の袖を引いて誘いをかけてきた
。その時、鮪がおしのけて中に立った。詳しいことは省くが、ここで歌のやりとりが続く。そして太子は
影媛が鮪と通じていたことを知ると同時に大いに怒り、その夜早速大友金村連に命じて、数千の兵を
率いさせ鮪臣を奈良山で殺した。 

海石榴市は古くから人の集まる所であった。
それこそが八十の衢であり歌垣の行われるところであったのである。
 

 
 

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